【真田幸村】の兜は六文銭じゃなかった!?家紋と兜の六文銭が物語る真田家の覚悟!!

真田幸村 兜 六文銭 赤備え 鹿の角 結び雁金紋 州浜 海野家

 

戦国ヒーローの「真田幸村」と言えば、

 

赤い鎧に家紋である「六文銭」の兜のイメージがありますよね。

 

六文銭は一文銭6つを2段に並べた

 

デザインの真田家の家紋ですが、

 

この六文銭には戦で命を落とすことも惜しまないという、

 

真田家代々の覚悟の意味があるそうです。

 

そして、この六文銭はそのまま真田幸村のイメージとなり、

 

大河ドラマ「真田丸」でも、堺雅人さん扮する

 

真田幸村は六文銭のついた兜を身に着けていました。

 

ですがなんと!幸村の最後の戦いである大阪の陣では、

 

兜に六文銭は使われていなかったというのです!

 

では、なぜ、六文銭が使われなかったのか・・・

 

そこには真田家の複雑な事情があったようです。

 

そこで、ここでは真田家の家紋の六文銭の意味と、

 

大阪の陣で六文銭の兜が使われなかった理由を探って行きます!!

 

  • 六文銭だけじゃなかった?!真田家の家紋のエトセトラ!
  • 六文銭と鹿の角の兜はのものだった?!
  • 六文銭が無い兜?!大阪の陣での幸村の兜とは?!
  • 六文銭がなくとも○○で覚悟を表明した幸村!!

 

 

六文銭だけじゃなかった?!真田家の家紋のエトセトラ!

 

真田幸村 兜 六文銭 赤備え 鹿の角 結び雁金紋 州浜 海野家

 

真田家の家紋と言えば、六文銭が有名ですが、

 

真田家には他にも

 

  • 結び雁金紋
  • 州浜

 

という家紋がありました。

 

当時の武家には家紋は複数あり

 

状況に応じて使い分けられていました。

 

真田家では六文銭は戦の際に使われていた家紋で、

 

平時には結び雁金や州浜が使用されていたようです。

 

では、それぞれの家紋にはどういう意味があるのか、

 

順に見て行きましょう!

 

真田家の覚悟の証!?六文銭の由来とは?

 

真田幸村 兜 六文銭 赤備え 鹿の角 結び雁金紋 州浜 海野家

 

六文銭」とはそもそもどういう意味でしょうか?

 

六文は昔のお金の単位ですが、

 

日本には古くから死者を葬る祭、

 

棺桶の中に六文の銭を入れる風習がありました。

 

なぜ六文を入れるのか?というと、

 

これは亡くなった人が三途の川を渡る際、

 

その船賃が六文というところからきています。

 

三途の川とは「この世」と「あの世」の間に流れる川のことで、

 

日本では古くから

 

「命を落とした者は、三途の川を渡ってあの世に行くもの」

 

と信じられていました。

 

そして亡くなった人が川を渡る際に困らないよう

 

葬る際に船賃の六文の銭を入れる」という

 

習慣があったのです。この三途の川の習慣が、

 

真田家の家紋の六文銭の由来です。

 

つまり六文銭の家紋には、

 

「戦で三途の川を渡る(命を落とす)かもしれないので、
六文銭を常に身につけておく」

 

という意味があり、これには「いつでも死ぬ覚悟が出来ている」

 

という武士の気概覚悟の現れだったのですね。

 

 

真田家の祖先とは?!

 

それでは、真田家ではいつ頃から

 

六文銭を家紋として使っていたのでしょうか。

 

真田家独自の家紋と思われている六文銭ですが、

 

もともとは真田家の祖先である「海野家」の家紋でした。

 

海野家は平安時代から続く信濃の領主で、

 

幸村の祖父「真田幸隆」は海野家の出身です。

 

そして幸隆が六文銭を家紋として使ったのが

 

真田家の六文銭の始まりでした。

 

平時の家紋は結び雁金紋??

 

真田幸村 兜 六文銭 赤備え 鹿の角 結び雁金紋 州浜 海野家

 

真田家には六文銭の他に平時に使用していた

 

結び雁金紋」という家紋もありました。

 

(かり・がん)はカモ科の鳥で、

 

中国の故事で縁起の良い鳥とされ、

 

空を飛ぶ姿が矢を連想させることから、

 

武家の家紋として使われることが多かったようです。

 

真田家の祖先である海野家もこの家紋を使っていました。

 

縁起のいい家紋?州浜とは??

 

真田幸村 兜 六文銭 赤備え 鹿の角 結び雁金紋 州浜 海野家

 

州浜」とは川から運ばれた土砂がたまって

 

陸地になっているところのことで、

 

竜宮城や仙人の住む山などを意味するようになり、

 

縁起がよいデザインとして使われるようになりました。

 

真田家・海野家が信仰する白鳥神社の神紋

 

洲浜であったことから、真田家もこの家紋を使うようになったそうです。

 

 

六文銭と鹿の角の兜は父のものだった?!

 

真田幸村 兜 六文銭 赤備え 鹿の角 結び雁金紋 州浜 海野家

 

真田家の兜と言えば、家紋の

 

六文銭と「鹿の角」の前立で有名ですが、

 

鹿の角にはどのような意味があったのでしょう?

 

鹿は古来より神の使いとして大切にされていました。

 

また雄雄しい姿にあやかろうと、当時、鹿の角を

 

兜の前立てにする武将は多かったそうです。

 

幸村の六文銭と鹿の角の前立てがついた兜は、

 

幸村が九度山に幽閉されていたときに

 

父の昌幸から譲り受けたもの、と言われています。

 

つまり、もともとは父、昌幸のものだったのですね。

 

では、幸村はかぶっていなかったの?というと、

 

幸村が六文銭と鹿の角の前立てがついた兜を

 

着用していたという記録はあるそうです。

 

しかし幸村が陣頭指揮をとった大阪の陣では、

 

父から受け継いだ前立ての兜は使われていなかったようです。

 

 

六文銭が無い兜?!大阪の陣での幸村の兜とは?!

 

真田幸村 兜 六文銭 赤備え 鹿の角 結び雁金紋 州浜 海野家

 

父の昌幸から六文銭と鹿の角の前立てがついた

 

兜を譲り受けた幸村でしたが、大阪の陣では、

 

六文銭の前立ては使われていませんでした。

 

つまり、前立ては鹿の角だけ!?だったことになりますが。。。

 

大阪の陣での幸村と言えば、

 

赤い鎧六文銭鹿の角の前立ての兜のイメージが

 

すっかり定着していますが、どうやらこの幸村の姿は

 

後世に作られたイメージだったようです。

 

なぜ大阪の陣で幸村は、六文銭を使わなかったのでしょうか?

 

実は、幸村には六文銭を使えない理由がありました。

 

それは兄、信幸の存在です。

 

真田家の宗家は兄、信幸が継いでおり、

 

信幸は「徳川派」に属していました。

 

一方、幸村は敵対する「豊臣派」に属しています。

 

戦場で幸村が六文銭を使うと、

 

兄に迷惑がかかるので配慮をした、という説もありますし、

 

単に戦場での混乱を避けるためとも言われています。

 

どちらもあり得る説ですよね。

 

そのような理由から大阪の陣での幸村は、

 

六文銭のない兜を被り、旗は赤一色の無地だったそうです。

 

 

六文銭がなくとも○○で覚悟を表明した幸村!!

 

真田幸村 兜 六文銭 赤備え 鹿の角 結び雁金紋 州浜 海野家

 

いつでも死ぬ覚悟が出来ている」という

 

真田家の覚悟の証であった六文銭が、

 

大阪の陣で使えなかった幸村ですが、

 

家紋は使えなくとも、真田家に代々受け継がれてきた

 

覚悟」の精神は、幸村の中にしっかり根付いていました。

 

幸村の「覚悟」は、鎧や兜を赤一緒に染めた

 

赤備え」で表明することになります。

 

選び抜かれた精鋭部隊のイメージだった赤備えとは?!

 

真田幸村 兜 六文銭 赤備え 鹿の角 結び雁金紋 州浜 海野家

 

もともと赤備えは、武田信玄の先発隊が発祥とされています。

 

信玄の先発隊はとても強く当時の武士の間では、

 

赤備えは選び抜かれた精鋭部隊という

 

イメージが植え付けられていました。

 

また、赤色は戦場で目立つので恐怖のインパクトを与えやすく、

 

戦う上でも効果がありました。そうなると、

 

どこの軍も武具を赤く染めたらよいのでは?

 

と思ってしまいそうですが、当時、朱色の染料

 

非常に貴重で高価だったため、

 

特別な事がなければ武具を全て朱色に染めることなどできませんでした。

 

こうした状況も、赤備えを特別化した要因の1つだったようです。

 

 

傭兵の部隊をあえて「赤備え」にした幸村の覚悟

 

真田幸村 兜 六文銭 赤備え 鹿の角 結び雁金紋 州浜 海野家

 

真田幸村が率いていた部隊のほとんどは

 

お金で雇った傭兵で、長年仕えた家臣でもなく

 

精鋭部隊でもありません。それなのに、なぜ幸村は

 

自分の部隊を赤備えとしたのでしょう。

 

それは「劣勢であっても戦う」という

 

幸村自身の覚悟の表明でした。

 

また、部隊の兵たちに赤い武具を与えることで、

 

士気を向上させる狙いがあったと言われています。

 

更に敵に対しても、赤備えの武具は恐怖を与える効果があり、

 

更に赤色は流血を目立たなくすることで、

 

戦いやすくなる精神的効果もあったようです。

 

結果、豊臣軍が次々と壊滅する中、

 

真田隊は最後まで諦めず戦い抜き、

 

徳川家康を討つ寸前まで追い詰めながら、

 

無念にも散っていったのでした。

 

まさに、「いつでも死ぬ覚悟が出来ている

 

真田家の精神そのものの戦いだったのですね。

 

以上、真田家に代々伝わる家紋と

 

それをモチーフにした兜について、

 

その由来やエピソードを見てきました。

 

真田幸村というと「死を恐れない侍」というイメージがありますが、

 

そもそも真田家の家紋に、

 

その「覚悟」の精神は宿っていたのですね。

 

そして「覚悟」の精神は大阪の陣で、

 

真田隊の「赤備え」という形で表現され、

 

彼の死をもって見事、結実したのかもしれません。

 

 

引き続き、「歴史に隠された黒い噂と黒歴史」をお楽しみください!!

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