【島津斉彬】の【子孫】の本性とは?! 実子と養子が繋いだ高貴な血筋??

島津斉彬 子孫 宮中某重大事件 篤姫 寧姫 てる姫 典姫 俔子 香淳皇后 良子妃


島津斉彬」といえば西郷隆盛を引き立てた英傑です。

幕末から明治期に活躍した偉人が、

島津斉彬ほど優れた人物はいなかった」と口を揃えて言うほどです。

優れた者は子との縁が薄いと言われますが、

斉彬もそのひとりで、子供のほとんどは夭逝しています。

正室と側室の間に11人の子がいて、

無事成人できたのは3人の娘だけです。

そして、幕末期に徳川家に嫁いだ養女の篤姫

後継者に指名された養嗣子の忠義のみ。

3人の娘と養子の篤姫忠義の子孫は現在どうなっているのか。

これから見て行こうと思います!!

  • 斉彬の養女でありながら維新後、薩摩を捨てた篤姫!
  • 養嗣子・忠義に嫁いだ2人の娘の悲劇とは?!
  • 島津家の中では絶えたが、斉彬の血筋は今もどこかで続いている?!
  • 養嗣子である忠義の子は薩摩家と徳川家を再び結び付けた?
  • 今上天皇に続く島津家の血筋・・


斉彬の養女でありながら維新後、薩摩を捨てた篤姫!


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幕末に斉彬の養女となって徳川家に嫁いだ

篤姫」は、もとは斉彬の又従妹でした。

分家の姫でしたが、祖父は第9代藩主の斉宣です。

斉彬は篤姫を養女にして徳川に嫁がせて

次期将軍を一橋慶喜にするよう画策しました。

しかし、これは篤姫にとってはあまりに無情な計画でした。

次期将軍を慶喜にするためには、自身の子を生してはならないのです。

女の幸せを捨てろということだったのです。

将軍家定は体が弱かったので夜をともにすることは

不可能だとわかってのことだったのでしょうが、

子を作らない前提で嫁がせるのは、とても非情な命令でした。

それでも篤姫は、嗣子を慶喜とするようけなげに

折に触れて家定に説得し続けます。

家定も、篤姫覚悟を持って嫁いで来たことに気づいていたのでしょう。

篤姫を不憫に思って、とても大切に扱いました。

いつしか2人は心で通じ合い、次第に想い合う仲になっていったのです。

しかし、2人の結婚生活は長く続きませんでした。

病気が悪化して家定は間もなく亡くなってしまうのです。

その前日、家定は諸大名を集めて「次期将軍は家茂である」と宣言し、

一橋派の諸大名の処分を命じました。

これは篤姫も納得してのことでした。

慶喜よりも、まだ幼少の家茂の方が扱いやすいだろうと

篤姫を思い遣ってのことだったからです。

子を育むということをさせてやりたかったのかもしれません。

篤姫もその優しさに感謝して、幼い家茂を我が子のように養育しました。

しかし、家茂も体が弱かったため和宮との結婚後すぐに亡くなります。

悲しみに暮れましたが、薩摩が攻めて来るという知らせが入り、篤姫は愕然としました。

自分を嫁がせておきながら徳川を攻めるのか、と憤りました。

その憤りは後々まで続き、維新後も鹿児島には一度も帰らずに東京に留まり、

徳川の子女を養育し、死ぬまで徳川家を守りました。


養嗣子・忠義に嫁いだ2人の娘の悲劇とは?!


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斉彬子供との縁が薄い人でした。

正室と側室に産ませた子供は11人もいたのに、

男子は全員亡くなり、残ったのは3人の娘だけでした。

次々と夭逝してゆく子供達に危機感を持った斉彬は、

弟の息子である忠義養嗣子に指名しました。

自分に万が一のことがあった場合、幼い息子が成長するまでの

繋ぎとして家を守らせようとしたのです。

しかし男子は全員亡くなり、安政の大獄に抗議するため

兵を率いて上洛を決めたその直後に発病し、助かりそうにない。

斉彬は家督を忠義に譲ることを遺言にして亡くなりました。


重豪ゆずりの斉彬の浪費を心配していた父の斉興は

息子の死に嘆きながらも、とりあえずはホッと安心したことでしょう。

けれども、久光は父とは違い兄の斉彬を尊敬していたので、

後継者に選ばれた自分の子をまるで兄の実子のように

下にも置かぬ扱いで遇しました。

そして忠義が成長すると、斉彬の血の混じった孫に

家督を継がせようと思い、斉彬の娘を娶らせました。

三女のてる姫は出産の時に亡くなってしまったので、

次に五女の寧姫を娶らせました。

しかし、寧姫も姉と同じように出産の時に亡くなってしまいます。

その上2人の子も幼くして亡くなってしまったので、

島津家に斉彬の血は途絶えてしまいました。


島津家の中では絶えたが、斉彬の血筋は今もどこかで続いている?!


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島津家の中で斉彬の血筋は絶えてしまいましたが、

てる姫がまだ生存中に四女の典姫がどこかの財閥に嫁いで

2人の男子を産んでいたことはわかっています。

けれども、残念ながらそれ以上のことは不明です。

第二次世界大戦後に多くの財閥はアメリカのGHQにより

解体させられたといいますから、典姫の嫁ぎ先も

その中に含まれていたのかもしれません。

しかし、現在もどこかで斉彬の血筋は途絶えることなく

続いているのかもしれませんね。。。


養嗣子である忠義の子は薩摩家と徳川家を再び結び付けた?

<板倉勝達>

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2人の妻と子を亡くした忠義は、そのあと板倉勝達

次女を妻に迎えて、2人の側妾を持ちました。

妻との間に子はいませんが、2人の側妾は多くの子を産みました。

  • 女子・・・11人
  • 男子・・・8人

男子は分家し、いずれも華族の爵位を与えられています。

女子も名だたる華族の家に嫁ぎ、華やかに暮らしました。

そして、その嫁ぎ先の中には、なんと徳川家も含まれています。

徳川家は本来、賊軍の立場でしたから一族根絶やしにされていても

不思議ではありませんでした。実際、そのような話も出ていたようです。

しかし、のちに華族の最高位「公爵」に列せられました。

これは天皇の許しが得られたこともあるのでしょうが、

維新で大きな功績を残した薩摩藩と縁戚になったことも

理由のひとつに挙げられるのではないでしょうか。

明治維新で徳川とは敵対しましたが、もともと薩摩徳川懇意の仲でした。

そのことを思い出し、忠義は娘達の何人かを、徳川家に嫁がせたのでしょう。

この頃には篤姫は病気のために亡くなっていましたが、

もし生きていれば、きっと喜んだに違いありません。


今上天皇に続く島津家の血筋・・


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また、島津家からは皇族に嫁いだ女子もいます。

それは八女の「俔子」でした。

俔子も子供を多く生みましたが、長女がのちの

昭和天皇の妃になる「良子妃」(香淳皇后)でした。

同じ学習院の小学部で学び、幼い頃から仲のよかった

皇太子裕仁良子女王は互いに淡い恋心を抱き、

15歳の時に裕仁親王に内定しますが、

結婚までスムーズに事が運んだ訳ではありませんでした。

婚約発表の前に、当時政界に絶大な権力を持つ

山縣有朋から物言いがつきました。

良子女王の母方、つまり島津家に色盲の遺伝の疑いありとのことで、

皇太子妃になるには不適格だと良子女王の父方である

久邇宮家に告げ、婚約辞退するようにと迫ったのです。

これには島津家も困惑しました。

先祖を遡ってみてもそのような病気があったなどとは

聞いたこともなかったからです。

もちろん確たるものがあったわけでもありません。

世間では色々な憶測が飛び交い、権力構造が薩摩側に傾くのを

嫌った山縣の策略ではないか、いや本当に

色盲の疑いがあるのではと噂が流れました。

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これがいわゆる「宮中某重大事件」です。


婚約発表は延期され、このまま立ち消えになってしまうのではと

良子女王が諦めかけていた1年後、皇太子裕仁のこの一言ですべてが決まりました。

良子でよい

これで婚約は決定しましたが、婚儀を執り行う直前に

関東大震災が発生して、被害の酷さにお二人は双意で婚儀を延期しました。

1年後に婚儀を執り行うまでいろいろとありましたが、

このあと良子女王は良子皇后となられ、二男五女の子宝に恵まれました。

けれども、最初の4人は女子であり、国民が待望している

世継ぎである男子はなかなか生まれませんでした。

心無い華族達から「皇后様は女の子しか産めない」と陰で言われ、

とうとう親族からも、側室を持つように言われますが、

裕仁天皇は「良子が悲しむから」ときっぱり断りました。

良子皇后への深い愛情がわかりますね。

その皇后への深い愛情や優しさは長男として

お生まれになった平成天皇にも受け継がれました。

平成天皇は、民間からお妃を娶られ、美智子皇后と

二人三脚で歩みながら、常に象徴天皇としての在り方を見つめ続けました。

そして、平成31年に皇太子に天皇を譲位、上皇になることを決めました。

島津家の血筋は今も、これからも天皇家の中に確かに受け継がれてゆくのです。

島津家の血筋は現代にいたるまで脈々と受け継がれているなんて、

本当に驚きですよね!^^;

引き続き、「歴史に隠された黒い噂と黒歴史」をお楽しみください!!

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