【島津斉彬】に至るまでの【家系図】が凄い?! 薩摩藩主たちの歴史に迫る!!

第11代藩主 島津斉彬 家系図 重豪 斉興 斉宣 光久 初代藩主 忠恒


島津家の家名は、遡れば、何と!鎌倉時代から続いているのですが、

南北朝時代室町時代戦国時代のさまざまな出来事を経て

現代まで家名と血筋が残っているのは

他の大名家と比べても極めてです。

その島津家で、斉彬第28代当主であり、

薩摩藩の藩主としては第11代藩主となります。

ここでは、斉彬に至るまでの江戸時代のおもだった

薩摩藩主を見て行きたいと思います!

  • 薩摩藩の初代藩主・忠恒は、横暴ながらも名君だった??
  • 第2代藩主の光久、大伯父と父の確執を復讐で終わらせた?!
  • 第9第藩主の斉宣、隠居させられた不遇とは?!
  • 第10第藩主の斉興、薩摩藩の財政再建に取り組んだ??
  • 第11代藩主の斉彬、国を思いながらも無念の最後とは?!


薩摩藩の初代藩主・忠恒は、横暴ながらも名君だった??


第11代藩主 島津斉彬 家系図 重豪 斉興 斉宣 光久 初代藩主 忠恒


忠恒島津義弘の三男でしたが、長兄が幼少の頃に亡くなり、

次兄の久保も朝鮮出兵の時に病死したことから、

豊臣秀吉の命により島津家の後継者と定められました。

人徳があり叔父の義久から見込まれていた次兄とは違って、

素行が悪いながらも豪胆で、朝鮮に渡ってからは

多くの敵を倒し武功を挙げています。

また、豊臣秀吉が死去すると、いち早く徳川家康と通じ、

豊臣方と懇意にしていた家老の伊集院忠棟

その息子の伊集院忠真を自らの手で殺害しています。

これは徳川の世が来ることを先読みした先見の明だと言われています。

やがて関ヶ原の合戦になりますが、父の義弘

思いがけず豊臣方についてしまいます。

それについては伯父の義弘の機転と駆け引きの巧さで

徳川家康から責めを受けることはありませんでしたが、

講和条約が思うように進みません。

あれこれと有利な条件で講和しようと考える義久が

まどろっこしかったのか、忠恒は自ら家康のもとに赴き、

素直に謝罪の意を示しました。その潔さが気に入ったのか、

家康は薩摩の本領安堵を約束しました。

本来ならば義久が継ぐはずの薩摩藩でしたが、

彼には嫡子がいなかったので、義弘の子である忠恒が家督を継ぎました。

これが、忠恒が薩摩藩の初代藩主となった所以です。

以降は琉球を直轄地に治め、明と密貿易し、

鹿児島城を築いて城下町を整備するなどして国の基礎を固めました。


第2代藩主の光久、大伯父と父の確執を復讐で終わらせた?!


第11代藩主 島津斉彬 家系図 重豪 斉興 斉宣 光久 初代藩主 忠恒


光久は幼少の頃、江戸に移住して暮らしました。

これは江戸に妻子を人質として住まわせる参勤交代の走りとなるものですが、

それを父の忠恒が率先して行ったことに光久は少なからず不信感を持っていました。

実は忠恒は、正室の亀寿を毛嫌いしていました。

光久の大伯父・義久の娘である亀寿は、

生前の義久同様にいつまでも政治に口出ししてくるからです。

光久の生母は義久の親戚の娘でしたから、その義久の血を受け継ぐ者は、

たとえ実の子さえも遠ざけたかったのかもしれません。

しかし、忠恒の正室である亀寿は、島津家の財産の相続権

世継ぎを決める決定権を義久から譲り受けていました

(※忠恒の素行の悪さを気にかけてのことと思われる)。

そこで早々に光久を自分の養子にして次期藩主に定めてしまったのです。

形だけではなく、遠く江戸にいる光久を実子のように思い、

手紙や贈り物を折々に届けて慈しんでいました。


光久は15歳の時に忠恒の死の直前に初めて薩摩に帰りましたが、

そこで知ったのは、自分をずっと実子のように慈しんでくれた

養母・亀寿への父のむごい仕打ちでした。

義久の死後、すぐに城から追い出し別居状態にしたあげく、

亡くなってもさえ作っていなかったのです。

そして、亀寿を見守っていた家老を暗殺し、

その一族もすべて皆殺しにしていました。

そのことを知り、怒りに震えた光久は亀寿の復讐とばかりに行動を起こします。

忠恒の娘婿であった島津久章自害に追いやり、

次いで忠恒の忠臣であった家老の島津久慶追放し、

その死後には系図から削除して、存在までも消そうとしました。

その仕打ちに、以降は誰も光久に逆らおうとはしなくなりました。

あとは光久の長命もあって、孫に家督を譲るまで

なんと!50年間も藩主として君臨しました。

その間に金山の採掘新田の開発などで財政を正常化することにも励み、

領民にとっては暮らしよい治世だったようですね。


第9第藩主の斉宣、隠居させられた不遇とは?!


第11代藩主 島津斉彬 家系図 重豪 斉興 斉宣 光久 初代藩主 忠恒


4代目藩主の吉貴は、それまであった分家に

越前家」「今泉家」を加えて、本家が断絶したら4つある分家から

次期藩主を輩出する仕組みを考えました。

それ以降の5代目から7代目までは早世し、

8代目の藩主となったのが重豪でした。

重豪は、身分に関係なく学問を学べるよう教育改革を推し進める一方で、

自身は「蘭癖」と呼ばれるほどに西洋文化に興味を持ちました。

そのため、藩内に蘭学を研究するための施設をいくつも建て、

歴代藩主が蓄えてきた藩費を使い果たし、莫大な借金を作ってしまいました。

重豪が42歳で隠居したことをきっかけに第9第藩主となった斉宣

父に無断で近思録派を登用し、緊縮政策を推し進めます。


重豪がこれまで建てた蘭学施設鷹狩り場廃止してしまったので、

父の逆鱗に触れて、家督を継いだばかりなのに隠居に追い込まれてしまったのです。

それだけではなく、多数の者に切腹、斬首、遠島などの処分を下しました。

これはのちに「近思録崩れ」と呼ばれる事件となり、

斉彬の死遠因になったとも言われています。

斉宣は江戸藩邸で隠居させられていましたが、

重豪も江戸の藩邸で隠居生活を送っていたので、

2人が江戸にいては金がかかると薩摩の地での

幽囚生活を願い出ますが、叶えられることはありませんでした。

ただ心の中でひたすらに我が子斉興に質素倹約を願うばかりでした。


第10第藩主の斉興、薩摩藩の財政再建に取り組んだ??


第11代藩主 島津斉彬 家系図 重豪 斉興 斉宣 光久 初代藩主 忠恒


長命だった重豪が亡くなって、ようやく藩主としての実権を

持てるようになる頃には、藩の借金500万両にまで膨れ上がっていました。

これは現在の額に換算して、5000億円にもなります。

これは到底、返すことのできない借金でした。

そこで登用したのが調所広郷でした。

調所はかなり無茶苦茶なやり方で債務整理を進めていきます。

借金を無利子にして返済期間を250年にしろと脅し

また証文を焼き払って借金そのものを無効にしたりしました。

調所は「鬼広郷」と陰口を叩かれるまでに忌み嫌われましたが、

そこまでしなければならないほど薩摩藩の財政は破たん寸前だったのです。


ひとり悪者になっている調所に申し訳ないと思い、

斉興も側室のお由羅とともに質素倹約に努めました。

調所は斉興達の篤実さに感謝して、より財政再建に励みました。

お由羅は小説やドラマでは悪女のように描かれていますが、

それは斉彬派が後年になって捏造したもので、

本当は慎み深く思い遣りのある女性だったと言われています。

斉彬の死後、怒りのやり場のない斉彬派から調所の家族は迫害され

一家離散まで追い詰められますが、

お由羅は側用人としてそばに置いて匿ったのです。

そして、決して派手さを好むこともありませんでした。

斉興とお由羅に支えられて進められた財政再建のおかげで

藩に200万両もの蓄えができ、やがてそれが江戸や京での

西郷隆盛達の活動資金となったのです。


第11代藩主の斉彬、国を思いながらも無念の最後とは?!


第11代藩主 島津斉彬 家系図 重豪 斉興 斉宣 光久 初代藩主 忠恒


斉彬」は正室の子として江戸藩邸上屋敷で産まれました。

正室が産んだ初めての子が男子だったこともあり、

重豪はとても可愛がりました。一緒に風呂に入ったり、

西洋のオモチャを与えたり、シーボルトと会談した時には同席もさせています。

そのため、斉彬も自然に重豪と同じ「蘭癖」になって行きました。

ペリー黒船に乗って浦賀に来た時にはとても興奮したことでしょう。

そして同時に西洋の進んだ文明を実感して、これから迫りくるであろう

難局に対処すべく公武合体武備開国を推し進めようとしました。

分家から篤姫を養女に迎えて徳川家に輿入れさせ

大奥から将軍に働きかけ一橋慶喜を次期将軍にすべく説得する役を担わせました。


そして自らも同志を集めて慶喜を次期将軍に担ぎ上げるため画策しました。

英明な慶喜でなければ国難に対応できないと考えていたのです。

しかし、次期将軍に家茂を推している井伊直弼に疎んじられ、

慶喜派は安政の大獄でことごとく処分されてしまいます。

憤った斉彬は抗議の意を示すために、藩兵5000人を引き連れて上洛するつもりでいました。
けれども、練兵式のさなかに突然倒れて急死してしまいます。

死因はコレラだとされていますが、暗殺説すら囁かれているのですが、真相はいかに。。

いずれにしても、志を果たすことなく倒れたことは無念だったでしょうね。

引き続き、「歴史に隠された黒い噂と黒歴史」をお楽しみください!!

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