【島津斉彬】の【死因】は暗殺だった!? 曾祖父の代から始まっていた薩摩藩内の確執とは?!

島津斉彬 暗殺 近思録崩れ 調所広郷 お由羅騒動 鬼広郷 重豪 斉宣


突然ですが、「近思録崩れ」と言うのをご存知でしょうか。

これは、薩摩藩暗部に触れることであり、

藩を二分したきっかけとなった事件だったのですが、

当時の資料のほとんどが処分され全容を知ることが

できないこともあり、鹿児島でもあまり語られることはありません。

そして、島津斉彬の遠因とも言われている事件なんですが、

今回はそんな島津斉彬死因について見て行きましょう!!

  • 近思録崩れ」から始まった藩内の暗い確執とは?!
  • 父の斉興を悩ませた嫡子問題!!
  • 曾祖父の重豪から才を見込まれたがゆえの斉彬の悲劇とは?!
  • そして、お由羅騒動へ・・
  • 斉彬の暗殺は予見されていた!?


「近思録崩れ」から始まった藩内の暗い確執とは?!


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島津斉彬曾祖父である重豪は、薩摩藩内の改革を推し進める一方で

西洋文化に興味を持ち、藩内に自分の趣味とも思える

蘭学関係の施設を多く設立しました。

また華美で贅沢な生活を好んだため、藩の財政は逼迫していました。

つまり、桁外れの浪費家だったのです。

42歳の時に長男の斉宣に家督を譲って隠居しましたが、

実権は依然として握り続けました。

斉宣が家督を継いで22年後、

近思録崩れ」と呼ばれる事件が起こります。

重豪の浪費がますます進み、このままでは藩の財政が持たない

と思った斉宣は、父の許しを得ずに近思録派登用し、

藩の緊縮財政政策を推し進めようとしたのです。

<島津重豪>

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しかし、重豪がこれまで力を入れてきた蘭学関係の施設

鷹狩場廃止するなどしたために、激しい怒りを買い、

厳しい処分が関係者に下されることとなりました。

切腹13名遠島25名を始めとして、わかっているだけでも

115名の処分者が出ました。家族にまで類が及び、

自ら自刃した者も少なくないと言われています。

責任を取らされる形で斉宣隠居を命じられ、

家督は斉宣の息子である斉興に譲られることになりました。

重豪は、自分の浪費を維持したいためだけに息子を含め

これだけの処分者を出したのです。

この事件をきっかけにして、さすがに浪費が過ぎたことに気づいたのか、

重豪は財政立て直しを考えますが、それはあまりに愚策で、

金を借りていた商人達に「債権放棄せよ」と徳政を出したために、

それ以降、金を貸そうという商人はいなくなりました。

普通に考えれば、当たり前ですよね^^;

仕方なく藩内市中の高利貸しから借りる他なく、

かえって借金が大きく膨れ上がり、

財政破綻寸前という状況に陥りました。

そのツケは、農民だけでなく武士階級の生活までも圧迫し、

薩摩藩の人々の暮らしはこれ以上ないほど苦しいものとなったのです。


父の斉興を悩ませた嫡子問題!!


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斉宣の隠居によっていきなり家督を譲られた島津斉興でしたが、

真っ先にしなければならないのは藩の財政再建でした。

そのために登用したのは、調所広郷でした。

調所は下級武士でしたが、家老職にまで押し上げて

債務整理にあたらせたのです。

当時、薩摩藩は重豪が作った借金が500万両にまでに膨れ上がり、

年間の利息だけでも50万両を超えていました。

薩摩藩の年収が15万両ほどでしたから、

とても返済できる金額ではありませんでした。

そこで調所はかなり無謀なやり方で債務整理を断行しました。

金貸しに無利子にするよう迫った上で返済期間

250年に引き伸ばすよう脅しました。

さらに元金を超えるほど利息を返済した金貸しからは

借用書を取り上げて燃やすなどして借金を無効にしました。

<奄美大島のサトウキビ畑>

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また、奄美大島の農民から砂糖と税金を搾取して

島民を飢餓寸前まで追い込んだのです。

そのため、庶民を苦しめる「鬼広郷」とまで揶揄されました。

しかし、そこまでしなければならないほど藩の財政は悪化していたのです。

斉興は、ひとり悪者になっている調所に申し訳なく思い、

自らも質素倹約に努めました。調所も斉興の篤実さに感謝して、

さらに財政再建に励み、殖産や農業改革、

琉球清国との密貿易をして、借金を返済しつつも

藩に200万両もの蓄えをすることができたのです。

ようやく藩の財政が潤いかけてきましたが、斉興には

頭の痛い問題が残っていました。それは、嫡子問題

江戸には、重豪の影響を受けた長男の島津斉彬がいたからです。


曾祖父の重豪から才を見込まれたがゆえの斉彬の悲劇とは?!


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島津斉彬は、江戸の薩摩藩邸上屋敷で誕生しました。

正室の子で、最初に生まれた男子の孫だったことから、

曾祖父の重豪は特に斉彬を可愛がりました。

幼い頃から西洋のものに触れさせ、狭い日本国だけでなく、

国外にも目を向けるよう教育したのです。

そのおかげか、斉彬は広い視野を持ち政治的能力にも

長けた若者に成長しました。しかし、その気質重豪とよく似ていて、

そのことが斉興を不安にさせていたのです。

重豪は藩主の才ありと見て斉彬を次期藩主にするよう

斉興に命じていましたが、斉興にはまた財政難

ぶり返してしまうのではないか?という懸念があったのです。


実際に、斉彬は一橋慶喜を次期将軍に推すために、

その工作費としてすでにかなりの金を使っていました。

斉興にはもうひとり、側室のお由羅に産ませた次男の久光がいました。

久光には斉彬のような優れた才能はありませんでしたが、

実直な性格で父母に逆らわず、質素倹約を守っていました。

斉興久光に跡を継がせたいと考えるようになり、

次第に斉彬を疎んじて遠ざけるようになりました。

重豪の頃の薩摩藩に戻してはならない、その斉興の思いが

親子の仲を断絶させる悲劇となったのです。


そして、お由羅騒動へ・・


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お由羅騒動」とは、簡単に言えば家督を斉彬と久光、

どちらに譲るのかということから生じた家督争いでした。

斉興がいつまでたっても斉彬に家督を譲らないので、

藩内ではさまざまな思惑も絡んで、

斉彬派久光派の二派に分かれていました。

斉彬を支持する者は西郷隆盛を始めとする若年層に多く、

封建的な空気を変えてくれそうな斉彬

自分達の頭上に戴きたいと考えていました。

一方、久光を支持する者は壮年の者に多く、

つまりあの財政難の苦しみを、身をもって味わった者達でした。

斉彬を藩主にしては、また食うや食われずの生活に戻ってしまうのではないか?

それは嫌悪ではなく、もはや恐怖でしかありませんよね。^^;


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財政難を知る者と知らない者のジェネレーションギャップですが、

若く意気盛んな斉彬派は、なんとしても斉彬に

藩主になってもらいたいと願い、斉彬にかかるいかなる些細な災いも

お由羅の仕業だと考えるようになりました。

斉彬は政治的な活動には意欲的で、その才を幕府にも

認められるほどでしたが、私生活には恵まれていませんでした。

殊に子供との縁が薄かったのです。

斉彬には正室と側室との間に11人の子供がいましたが、

6人の男子は幼い頃に病気で亡くなり、残ったのは3人の娘だけでした。

つまり、嫡子はいなかったのです。それもお由羅の仕業だとして、

憤った斉彬派はお由羅暗殺を画策します。

しかし、それが露見して多くの斉彬派が処罰されるに至りました。

これが世に言う「お由羅騒動」です。


斉彬の暗殺は予見されていた!?


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お由羅騒動で跡継ぎの目がなくなったと思われていた

斉彬ですが、ここで起死回生一手を打ちます。

薩摩藩がずっと極秘で行っていた密貿易を徳川幕府に訴え出たのです。

それを知った老中の阿部正弘は、

将軍に斉興の隠居を促すよう願い出ました。

これによって斉興はとうとう隠居せざるを得なくなり、

晴れて斉彬は島津家の第11代藩主となることができたのです。

しかし、斉彬の藩政は長く続きませんでした。

将軍継嗣問題で大老井伊直弼と対立したのです。

一橋慶喜を次代の将軍にと推していた一派は、

家茂を将軍にと考えていた井伊直弼によって

安政の大獄でことごとく処刑されました。

それに怒った斉彬は、鹿児島の藩兵5000人を率いて、

武力で抗議するべく上洛しようとしました。

しかし、そのさなかの練兵式で、

斉彬は突然発病し急死してしまったのです!!


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死因は、当時全国的に流行っていたコレラであるとされていましたが、

現代医学の見地から症状がコレラのものとは違っていたため、

今では服毒による暗殺説の方が有力だとされています。

そして、斉彬の死が予見されていたのではないかという動きが、

大久保利通を通じて知ることができるのです。

大久保は斉彬の死後、久光に近づくために人づてに

手紙を送っていたとされていますが、これが実は

斉彬の存命中からだったという説もあるのです。

斉彬が藩主に就いて役人の事務方に復帰した大久保でしたが、

だからこそ仲間内の誰よりも日に日に実感していたのでしょう。

斉彬の金遣いの荒さは酷く、庶民農民に課せられる

が年々重くなっていました。

そこへ藩兵5000人を引き連れての上洛などと言い出せば、

調所が必死で蓄えた200万両など、すぐに吹き飛んでしまうでしょう。

のちに明治政府重鎮となるリアリスト大久保には、

遅かれ早かれ斉彬が何者かに暗殺されるとわかっていたのかもしれませんね。。

いつの世も浪費家は叩かれるものなんですね。^^;

引き続き、「歴史に隠された黒い噂と黒歴史」をお楽しみください!!

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