【吉田松陰】の【名言】はまさにアジテーター(扇動者)!?弟子たちを明治維新へと導いた【名言】とは?!

吉田松陰 名言 安政の大獄 井伊直弼 杉寅次郎 佐久間象山 玉木文之進 山鹿流兵学師範 松下村塾 留魂録 扇動者

 

吉田松陰」は、長州藩で「松下村塾」を主宰して

 

多くの英傑を世に送り出しました。

 

彼は優秀な教育者である反面、過激な思想を持った

 

アジテーター(扇動者)だったとも言われています。

 

吉田松陰とは、どのような人物であったのか、

 

どのように弟子達を明治維新へと導いたのか?

 

吉田松陰の名言とともに紹介したいと思います。

 

  • 神童と呼ばれた吉田少年の姿とは?!
  • 黒船での密航の企てはペリーを暗殺するためだった?!
  • 松下村塾はテロリスト養成所だった!?
  • 過激さを増してゆく松陰の言葉・・・
  • 松陰の内にある「狂気」に気づいた人物とは?!
  • 松陰の死後も志士達を奮い立たせ導き続けた『留魂録

 

 

神童と呼ばれた少年の姿とは?!

 

吉田松陰 名言 安政の大獄 井伊直弼 杉寅次郎 佐久間象山 玉木文之進 山鹿流兵学師範 松下村塾 留魂録 扇動者

 

吉田松陰は幼少の頃から実に優秀な子供でした。

 

松陰の父は下級武士ながらも博学で、

 

農作業をしながら子供達に口述でさまざまな学問を教えていたからです。

 

松陰は幼いながらもよく聞き、よく学びました。

 

松陰の名前は「杉寅次郎」でしたが、4歳の時に

 

山鹿流兵学師範だった叔父の養子になったため、

 

吉田」姓となりました。

 

しかし翌年、養父が病気で亡くなったので、

 

再び実家で養育されることになったのです。

 

実家に戻されはしたものの、以前のように

 

穏やかな暮らしが待っていたわけではありませんでした。

 

吉田家は代々「山鹿流兵学師範」の任にあったので、

 

実家の農作業を手伝っている余裕はなく、

 

もうひとりの叔父である玉木文之進の指導により、

 

いっそう勉学に励むこととなりました。

 

吉田松陰 名言 安政の大獄 井伊直弼 杉寅次郎 佐久間象山 玉木文之進 山鹿流兵学師範 松下村塾 留魂録 扇動者

 

昼夜を問わない叔父の厳しい指導による

 

ところもありましたが、松陰の知識欲は尋常ではなく、

 

あらゆる学問を習得してゆきました。一度やりかけたことは最後までやり通す、

 

その執念めいた意志の強さは、この頃に培われたものだったのか、

 

或いは生来のものだったのか。。いずれにしても、彼の英明さは評判となり

 

神童』と呼ばれるまでになりました。

 

そして、なんと!わずか9歳で藩校明倫館の兵学師範

 

つまり「先生」となったのです。本当にスゴイですね^^;

 

 

黒船での密航の企てはペリーを暗殺するためだった?!

 

吉田松陰 名言 安政の大獄 井伊直弼 杉寅次郎 佐久間象山 玉木文之進 山鹿流兵学師範 松下村塾 留魂録 扇動者

 

松陰が22歳になる頃、日本を取り巻く世界情勢

 

さまざまな変化が見え始めていました。

 

アジア諸国が欧米列強によって植民地化され始めていたのです。

 

いすれ日本も植民地にされてしまうのではないか?

 

危機感を募らせた松陰は、西洋兵学を学ぶために

 

九州や江戸に留学しました。

 

江戸では西洋兵学に詳しい佐久間象山に師事しました。

 

熱心に勉学に勤しむそのさなか、「ペリーの黒船」が浦賀に来航します。

 

松陰は黒船を初めて見て、日本とアメリカの文明の差

 

思い知らされることとなりました。

 

「敵を退けるにはまず敵のことを知らなければならない」

 

と、松陰は密航を企てます。

 

盗んだ小舟で黒船に近づき、アメリカへの渡航を願い出ましたが、

 

拒絶され、虚しく江戸に戻って自首しました。

 

・・・と、ここまでが歴史の教科書に載っている通説です。

 

実際には渡航目的で黒船に乗り込もうとしたのではなく、

 

なんと、ペリーを暗殺しに行ったというのです!!

 

密航前の友人宛に書き送った手紙にも、

 

それを示すものが複数見つかっています。

 

にもかかわらず、公にあまり知られていないのは、

 

学校では教えられない不都合な真実だからでしょうか。。。^^;

 

とにもかくにも、松陰は故郷に戻されに入れられました。

 

収監されていた期間は1年余りでしたが、

 

獄中で獄囚達と国防について意見を交わすうちに、

 

松陰の中で教育に対する考え方が変わってゆきました。

 

師範が一方的に教える指導法ではなく、

 

共に学んで成長して行く「相互教育」が出獄後に開いた

 

松下村塾」の教育理念となるのです。

 

 

松下村塾はテロリスト養成所だった!?

 

吉田松陰 名言 安政の大獄 井伊直弼 杉寅次郎 佐久間象山 玉木文之進 山鹿流兵学師範 松下村塾 留魂録 扇動者

 

松下村塾はもともと叔父の玉木文之進が開いていました。

 

城通いの役人になってからは閉じられていましたが、

 

それを引き継ぐ形で再び誕生させると、

 

近隣の村々から子供達が集まってきました。

 

その中には尊王攘夷のリーダー的存在となる

 

久坂玄瑞や高杉晋作、のちに初代総理大臣となる

 

伊藤博文などもいました。

 

松陰は学問を教える傍ら、弟子達に多くの句を与えました。

 

・夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、
 計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。
 故に、夢なき者に成功なし。

 

・決心して断行すれば、何ものもそれを妨げることはできない。
 大事なことを思い切って行おうとすれば、
 まずできるかできないかということを忘れなさい。

 

・人間はみな何ほどかの純金を持って生まれている。
 聖人の純金も我々の純金も変わりはない。

 

最後の言葉は、「人間には身分などなく平等だよ」ということです。

 

伊藤博文などは身分の低い足軽の息子だったので、

 

どれだけ嬉しかったことでしょうね。^^

 

吉田松陰 名言 安政の大獄 井伊直弼 杉寅次郎 佐久間象山 玉木文之進 山鹿流兵学師範 松下村塾 留魂録 扇動者

 

松陰の優しい人柄と心に響く句に弟子達は夢中になりました。

 

「身分の低い自分でも何かできるかもしれない」

 

と、強い自信を持ち始めたのです。

 

しかし、これは今で言う、いわゆる「洗脳」に近い行為です。

 

人への洗脳はまず言葉によって行われるからです。

 

もし松陰がそれを意識して弟子達を指導していた

 

とするならば、松下村塾は純粋な学問を学ぶ場

 

ではなかったと言えます。

 

やがて教えは政治色を帯びて行き、議論を中心とした

 

授業は藩政批判を超えて国政批判にまで及びました。

 

当然のように松下村塾は危険視されたため、

 

それを良く思わない多くの弟子達が塾を去って行きました。

 

そして、ちょうどその頃、江戸では思いも寄らないことが起きていました。

 

江戸幕府が朝廷の勅許も得ずに、

 

アメリカと日米修好通商条約を締結していたのです。

 

 

過激さを増してゆく松陰の言葉・・・

 

吉田松陰 名言 安政の大獄 井伊直弼 杉寅次郎 佐久間象山 玉木文之進 山鹿流兵学師範 松下村塾 留魂録 扇動者

 

勅許もなく日米修好通商条約を結んだことを知って、

 

松陰は怒りに震えました。

 

天皇を無視して勝手に条約を結んだこともそうでしたが、

 

彼は幕府の愚策に憤ったのです。

 

日米修好通商条約は「不平等条約」と言われるほどに、

 

日本に不利な条約でした。

 

「このままでは日本人は搾取され続けてしまう!」

 

怒りに我を忘れた松陰は、「幕府を倒せ」と藩庁に書を送ります。

 

それだけでなく幕府の老中を暗殺するから

 

武器をよこせと願い出て、またもや投獄されてしまうのです。

 

この頃から、松陰の句の中に「」や「狂気」という

 

単語が増えてゆきました。

 

  • 思想を維持する精神は、狂気であらねばならない。
  • 奪うことができないものは志である。滅びないのはその働きである。
  • 何もせずに機会を失ってしまうのは、人の罪である。

 

句の端々に、なぜすぐに行動を起こさないのかと責めています。

 

けれども、誰誰を暗殺しろと言ったり、

 

藩主を拉致して天皇に謁見させろと言ったり、

 

松陰の言葉は次第に過激さを増し、

 

困惑した弟子達から諫める手紙が届きました。

 

それに憤慨した松陰は、自分から弟子達に絶縁状を出しました。

 

弟子達は、それでもいつかはわかってもらえるだろう、

 

わだかまりが解ければ再び会える日が来るだろうと思っていました。

 

しかし、それは叶いませんでした。

 

江戸から松陰の召喚命令が届きました。

 

安政の大獄」です。

 

松陰の内にある「狂気」に気づいた人物とは?!

 

吉田松陰 名言 安政の大獄 井伊直弼 杉寅次郎 佐久間象山 玉木文之進 山鹿流兵学師範 松下村塾 留魂録 扇動者

 

江戸から召喚命令が届いても、長州藩では

 

それほど心配はしていませんでした。

 

そもそも安政の大獄の本質は、将軍の跡継ぎ問題だったからです。

 

水戸の一橋慶喜を次の将軍にしたい一派は、

 

一部の公家を抱き込んで裏でいろいろ画策していました。

 

安政の大獄とは、その計画を打ち砕くためのものだったのです。

 

江戸幕府でも松陰が一派に加担してないことはわかっていました。

 

しかし、捕らえられた者の口から松陰の名前が出たので、

 

とりあえず召喚命令を出したに過ぎなかったのです。

 

形だけの取り調べをして、すぐに無罪放免にするつもりでいました。

 

ところが、松陰だけは違っていました。

 

彼は助かろうなどとは考えていなかったのです。

 

彼の心にあったのは、正々堂々と幕府を非難すること。

 

そして、すっかり日和っている弟子達をどうやって

 

奮い立たせるかということだけでした。

 

松陰は、自分のさえ利用しようとしたのです。

 

御評定の場で、松陰は声を大にして捲し立てました。

 

老中を暗殺しようとしたこと、徳川幕府の転覆を

 

企てていたことを白状し、なぜそうしようとしたのか、

 

非はすべて徳川幕府にあると言ってのけたのです。

 

そして、「自分は死罪が相当!」と訴えたのでした。

 

松陰の決死の覚悟に頭を抱えたのは幕府側でした。

 

一派に関与してない者を死罪にはできません。

 

安政の大獄の本質を民は見抜いていたのです。

 

無関係の者を処罰すれば人心が荒れます。

 

家臣は「遠島」が妥当だろうと進言しましたが、

 

井伊直弼」はあくまで「死罪」としました。

 

この男を生かしておいては危険だと本能的に察知したのでしょうか?

 

松陰の内にある狂気、身から発する気

 

人に与える影響力を恐れたのです。

 

しかし結果として、「死罪」とした井伊直弼の判断は、

 

やがて徳川幕府を滅ぼすことになるのです。。。

 

松陰の死後も志士達を奮い立たせ導き続けた『留魂録』

 

吉田松陰 名言 安政の大獄 井伊直弼 杉寅次郎 佐久間象山 玉木文之進 山鹿流兵学師範 松下村塾 留魂録 扇動者

 

吉田松陰の死の知らせは、すぐに彼の弟子達に知らされました。

 

届けられたのは、「留魂録」でした。

 

これまでの松陰の教えのすべてがここに帰結するかのような、

 

人間の死生観を表した長文の辞世の句でした。

 

(「留魂録 ―八章― 現代訳」)

 

今、私は死を前にして心安らかです。
今さら誰を恨もうという気もありません。
それは命について、こう悟ったからです。
春に種をまき、夏に苗を植え、秋に実り、冬には蓄える。
人にも同じように四季があります。
人の命とは、歳月の長さではない。
十歳で死んでゆく者は十歳の中に、
二十歳で死ぬ者は二十歳の中に、
それぞれ春夏秋冬があり、実を結んでいる。
私は三十歳ですが、収穫の時を迎えたと思っております。
実りが中身の詰まっていない籾なのか、
成熟した栗なのかはわかりません。
もし同志の中で、わたしの心を継いでくれる者がいるのなら、
それは私のまいた種が絶えずにまた実りを迎えることであって、
収穫のあった年にも恥じないものとなるでしょう。
同志の皆さん、このことをよく考えてください。

 

この句を読んだ時、これまでの松陰の言葉

 

すべてが記憶として蘇ったことでしょう。

 

弟子達の心は激しく揺さぶられました。

 

松陰の思いを胸に刻むかのように、弟子達は各々

 

留魂録」を書き写し、いつも懐に留めました。

 

そして、それは他藩の志士達にも伝えられ、

 

それがやがて倒幕の原動力となっていったのですから、

 

死してもなお、後の影響力を発揮するとは並みの人間では

 

無かったことは間違いないですよね。^^;

 

引き続き、「歴史に隠された黒い噂と黒歴史」をお楽しみください!!

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