【吉田松陰】の【名言】はまさにアジテーター(扇動者)!?弟子たちを明治維新へと導いた【名言】とは?!

吉田松陰 松下村塾 留魂録 対外政策 相互教育 玉木文之進

 

京都の東山の霊山護国神社といえば、

 

坂本龍馬や中岡慎太郎のお墓があることで有名ですが、

 

その少し上の段にも横並びに多くの墓が並んでいます。

 

何段にもわたって多くの墓が並んでいます。

 

没年月日を見ると、皆同じ日だということに気づくでしょう。

 

それが元治元年八月に起きた

 

禁門の変」で亡くなった長州藩士達のお墓です。

 

その中には久坂玄瑞入江九一をはじめとする

 

松下村塾出身者も多数含まれているのです。

 

弟子達を生き急がせた松陰の教えとは一体なんだったのか??

 

松下村塾は弟子達にとってどのような場所だったのか、

 

順に追って見て行きたいと思います!!

 

  • 幽囚の身なのに始めた??松下村塾とは?!
  • 」と「
  • 相互教育から討論中心の授業へ
  • 松陰が考えた対外政策とは??
  • 長州征討から倒幕、明治維新
  • 長州人のが拒んだ? !西郷隆盛像の建立の秘密とは?!

 

 

幽囚の身なのに始めた??松下村塾とは?!

 

吉田松陰 松下村塾 留魂録 対外政策 相互教育 玉木文之進

 

松下村塾」は、もともと松陰の叔父である

 

玉木文之進」が開いた私塾でした。

 

吉田松陰も幼い頃、松下村塾で学んでいます。

 

文之進が役人に登用されてからは外戚の者が

 

跡を継いでいましたが、実質は閉鎖状態。

 

その松下村塾を引き継いで、自宅隣の八畳一間の小屋で

 

再開させたのが松陰でした。

 

黒船密航に失敗し、江戸から故郷に強制送還されて

 

野山獄に投獄後、実家の杉家に幽閉された身では、

 

私塾を開いて近隣の村の子供達に

 

学問を教えることしかできなかったのです。

 

野山獄では知識の高い人物が多く、

 

学問を互いに教え合っていました。

 

その経験から、松陰は「相互教育」の理念を大切にしようと考えました。

 

弟子達に学問を教えるが、弟子達からも学ぶ。

 

自分と弟子は対等だという考えをもとに

 

松下村塾はスタートしたのでした。

 

 

「僕」と「君」

 

吉田松陰 松下村塾 留魂録 対外政策 相互教育 玉木文之進

 

弟子自分対等であり身分の隔てはない、

 

弟子達の関係も同様である。

 

しかし実際には農民や商人や武士までいて、

 

その武士の中でも足軽から上士までいます。

 

下層の者は臆してへりくだってしまうし、

 

上層の者は居丈高になります。

 

その事態を憂慮した松陰は考えて、

 

自ら塾内での呼び方を変えました。

 

自分のことをへりくだって「」と言い、

 

自分以外のすべての弟子を尊んで「」と呼びました。

 

その呼び方は今までになく斬新な響きで、

 

弟子達もすぐに真似をしはじめました。

 

すると、塾内での空気が変わり、誰もが臆することなく

 

対等に意見が言えるようになったのです。

 

これが現在にも伝わる「」と「」の始まりだったんですね。

 

 

相互教育から討論中心の授業へ

 

吉田松陰 松下村塾 留魂録 対外政策 相互教育 玉木文之進

 

松陰が目指したのは「相互教育」でした。

 

身分の隔てなく弟子を受け入れ、ともに学ぶ。

 

しかし蓋を開けて見れば、読み書きのできない者や、

 

松陰が思わず唸るほどの天才肌もいます。

 

そのレベルの違いが「相互教育」の障壁となっていました。

 

読み書きのできない者にかかりっきりになっていれば、

 

できる者の授業ができずに授業が偏ってしまいます。

 

どうしたものかと松陰はまたもや考えましたが、

 

松陰の心配をよそに、弟子達は弟子達で

 

この状態を改善させようと動き始めました。

 

読み書きができる者ができない者に教えて、

 

教えられた者はまた別の者に教える。

 

松陰が目指した「相互教育」の形になっていたのです。

 

安心した松陰は、弟子達のことは弟子達に任せて、

 

教えることだけに専念しました。

 

松下村塾の授業は、

 

  • 孟子儒学
  • 山鹿流兵学
  • 史学

 

などが中心でした。特に力を入れていたのは儒学で、

 

自己の解釈を加えて討論をさせました。

 

討論するということは、自分の考えをしっかりと自分の中に落とし込み、

 

討論相手を納得させる強い意思が必要になります。

 

まずは自分の意見をしっかりと主張できるようにして、

 

それが自信となり威風堂々と成長させようとしました。

 

孟子儒学の中には、いわゆる草莽崛起の思想がありました。

 

民衆が立ち上がって大きなことを成すためには
弟子のひとりひとりが志を持ち立派に行動しなければならない

 

と説いたのです。

 

心身の鍛錬も必要だと思い、陽気の暖かい季節になると

 

近くの川で水練させ、時には田畑を耕かせたりもしました。

 

松下村塾の生きた授業は評判になり、長州全土から

 

入塾希望者が溢れるようになりました。

 

 

松陰が考えた対外政策とは??

 

吉田松陰 松下村塾 留魂録 対外政策 相互教育 玉木文之進

 

松下村塾が広く知られるようになると、

 

長州全土から才ある者が集まりました。

 

身分が低いために浮かび上がれなかった才能豊かな者達でした。

 

この頃から、塾は政治色を帯びてゆきます。

 

塾生の中にはすでに江戸に出て学んでいる者が多く、

 

国の情勢をつぶさに書き送っていたからです。

 

その内容に危機感を募らせ、討論の内容も

 

国政国防中心になって行きました。

 

混迷する時代の中で、これも自然の成り行きと言えるでしょうね。

 

松陰が国防のひとつとして提唱したのは「対外政策」でした。

 

これはあまりに過激な論でした。

 

まずは蝦夷地を開拓してロシアの侵略を阻止し、

 

並行してカムチャッカやオホーツクにも侵攻し勢力を拡大する。

 

西方では、琉球を同盟国とした上で朝鮮を攻めて属国とし、

 

さらに中国大陸に進み、北は満州から南は台湾まで支配下に治め、

 

ゆくゆくはフィリピンインドまで攻め取ろうというものでした。

 

 

松陰は、これを領土拡大のためではなく、

 

欧米列強から日本を守るための「国防」として考えていました。

 

周りを海に囲まれた日本は、他のアジア諸国のように

 

簡単には植民地にされることはありません。

 

ただ西洋諸国が朝鮮を出口にして日本を攻めてきた場合、

 

その距離の近さから防ぐことは容易ではなく、

 

だからこそ最低でも朝鮮をおさえておかなければならないと考えたのです。

 

しかし、これは当時の日本の国力からすれば、まさに夢物語でした。

 

松陰自身も、ただの構想として語っていただけに過ぎなかったでしょう。

 

ですが。。。後年、明治政府の高官となった松下村塾出身者達によって

 

これらが実現されることになるのです。。。。。

 

 

長州征討から倒幕、明治維新へ

 

吉田松陰 松下村塾 留魂録 対外政策 相互教育 玉木文之進

 

やがて松陰は「安政の大獄」で処刑され、

 

弟子達は師の遺志を継ぐべく、行動を起こしました。

 

松陰の遺した「留魂録」を胸に留め置き、

 

己の死が誰かの糧となるとばかりに死ぬことに

 

いっさい躊躇はしませんでした。

 

水戸藩との密約と井伊直弼の暗殺

 

他藩士と連携を図っての朝廷工作、

 

外国人を排するための攘夷活動・・・。

 

その過程で薩摩・会津両藩との衝突があり京を追われ、

 

さらに翌年、池田屋事変に端を発した禁門の変

 

久坂玄瑞を含む多くの長州藩士戦死しました。

 

さらには幕府による長州征討と英仏蘭米の

 

四ヵ国連合艦隊の攻撃、藩内の政権争いの激化など

 

長州藩にとっては苦難の連続となりましたが、

 

松陰門下の高杉晋作が奇兵隊を率いてクーデターを起こし、

 

再び藩論を倒幕に戻すことに成功しました。

 

そして、時を待っていたかのように薩長同盟が結ばれ、

 

倒幕から明治維新へと時勢を動かすこととなったのです。

 

 

長州人の魂が拒んだ? !西郷隆盛像の建立の秘密とは?!

 

吉田松陰 松下村塾 留魂録 対外政策 相互教育 玉木文之進

 

徳川幕府を倒して新しく明治政府ができましたが、

 

問題は山積みでした。その問題のおおよその部分は、

 

幕末に犬猿の仲であった薩摩と長州の軋轢にありました。

 

明治政府は実質的に薩摩長州によって成り立っていましたから、

 

どちらが欠けてもいけない、そんな状態ながらも

 

感情的なもつれ」がついて回ったのです。

 

顕著なのは、京都の霊山護国神社でした。

 

維新前に亡くなった志士達を祀ってもよいという

 

天皇の詔があり建立された神社でしたが、

 

そこには薩摩藩士の墓はひとつもありません。

 

各藩のエリアに分けられ、各藩の志士達の墓が建てられましたが、

 

薩摩藩士のエリアはなく、一番多いのは長州藩士の墓でした。

 

これ見よがしに禁門の変での死者の墓まで建てたものですから、

 

薩摩の者は苦々しく思いながらも

 

霊山護国神社へ埋葬はできなかったのです。

 

なぜなら、禁門の変は薩摩藩と長州藩の

 

武力衝突で起きたことだったからです。

 

 

しかし昭和の時代になって、関西在住の鹿児島出身者らが

 

霊山護国神社西郷隆盛の像を建てようと計画しました。

 

日本の英雄である西郷隆盛を奉らないでどうする、

 

と思ったのでしょうが結局それが実現することはありませんでした。

 

日本最大となる10.5メートルにも及ぶ像が完成しましたが、

 

建立の間際に依頼者が亡くなり、計画が頓挫してしまったのです。

 

西郷隆盛は明治期では長州閥と手を取り合って

 

政府のかじ取りをした人物でしたが、

 

禁門の変では明らかに長州藩の敵方の指揮官でした。

 

きっと長州人が嫌がっているのだろうと感じたのかどうかはわかりませんが、

 

西郷隆盛の像は霊山護国神社に建立されることはなく、

 

結局、故郷鹿児島の地に置かれることになったのですが、

 

現代でも色んな思いを受け継いでいるのかもしれませんね。^^;

 

引き続き、「歴史に隠された黒い噂と黒歴史」をお楽しみください!!

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