【吉田松陰】には4人の【妹】がいた?!大河ドラマ「花燃ゆ」には出なかった真実とは?!

吉田松陰 4人 妹 花燃ゆ 艶 千代 文 寿


大河ドラマ「花燃ゆ」では、松陰の4番目の妹、

」が主人公でした。姉の「寿」もいましたが、

それ以外の妹は見られなかったため、

ドラマを見ていた人の中には、松陰の妹は2人だけ

と思っている人が多いようですが。。。

実は、寿以外に二人、つまり松陰には4人の妹がいました。

しかも「」の人物像もドラマ用に脚色されたものだったのです。

では、松陰の妹達とはどのような人物だったのでしょうか?

ここでは、その4人について見て行きたいと思います。^^b

  • 長女「千代」吉田松陰にとって最愛の妹だった?!
  • 次女「寿」どこまでもポジティブな性格だった??
  • 三女「」が松陰の死生観を変えた?!
  • 四女「」本当は寡黙でおとなしかった??


長女「千代」吉田松陰にとって最愛の妹だった?!


吉田松陰 4人 妹 花燃ゆ 艶 千代 文 寿


大河ドラマ花燃ゆ」には出て来ませんでしたが、

実は寿には姉がいました。

松陰よりも2つ歳下の長女の「千代」です。

松陰にとっては初めての妹であり、

目の中に入れても痛くないほど可愛かったようです。

歳が近かったこともあって、とても仲のよい兄妹でした。

松陰が吉田家の家督を継いで勉学に明け暮れるようになる頃には、

千代も忙しい母に変わって幼い妹弟達の面倒を見るようになっていました。

僅かでも時間ができると何をするでもなく松陰の近くに行き、

兄のそばを離れようとはしませんでした。

松陰にとっても心安らぐ癒し的な存在だったのでしょう。

そんな仲睦まじい兄妹でしたが、千代が16歳の時に

親戚の児玉家に嫁ぐことになりました。

おめでたいこととはいえ、妹を思う兄の心情

どのようなものだったのでしょうか。。。

千代が大河ドラマに出なかった理由は、

すでに嫁いでいたからです。そして、主人公を

四女の「」にしたことで、松陰の一番の理解者

別にいては都合が悪かったのでしょう。

裏を返せば、ドラマのの存在こそが千代だったのです。

松陰が密航事件で投獄されると、

千代は居ても立ってもいられず、身の回りの物や

食べ物を持って獄に向かい手紙を添えて差し入れました。

後日、松陰はお礼の手紙を書いていますが、

そこには千代への愛情が溢れていました。


十二月三日
十一月二十七日と日付のある手紙、?びに九ねぶ・三かん・かつをぶし
ともに昨晩届き、獄の中は薄暗いが、あなたの気持ちがよくわかりました。
涙が出て止まらず、夜着をかぶってこらえましたが、どうにも耐えられず、
また起きて手紙を繰り返し読み、ますます涙にむせび、
いつの間にか寝てしまったけれど、まもなく目覚めて朝まで寝られず
いろんなことを思い出していました。
(中略)
あなたのことはいとけない頃より心優しい妹と知っていて、
ひとしお親しく思っていましたが、このほど手紙を
届けてくれる心遣いまで見せてくれましたね。

それから筆まめな松陰らしく長文に渡る妹を思う文章が

長々と続くわけですが、さすがに千代も苦笑したことでしょうね。^^;

以降も度々獄を訪れては会い、幼い頃のように

兄と妹の穏やかな時間を過ごしました。

ちなみに千代は93歳まで生きて、兄が遺した書を

大切に保存することに努めました。

現代に松陰の人となりが伝わっているのは、

この千代の功績でもあるわけですよね。^^b


次女「寿」どこまでもポジティブな性格だった??


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松陰の9歳下の妹である「寿」は、とても勝ち気快活な女性でした。

言いたいことは臆することなく言い、聴覚に障害がある弟が

近所の子供達にいじめられていれば、男の子とも平気で喧嘩をしました。

そんな男勝りの寿のことを松陰は心配して、毎日のように諫めていました。

しかし、この寿の良い所は、いくら叱られても

あっさりしていて拗ねるところがない。

反論はしても、その内容は松陰も思わず納得するほど

単純明快なものだったのです。

悪いことをしたからやっつけただけよ

そんな妹に困りながらも寿の持つ正義感と、

間違ったことはしていないと言い切れる強い信念を松陰は愛しました。

やがて、叔父の玉木文之進の尽力で小田村伊之助と結婚が決まると、

とても喜びました。これ以上ないほどの嬉しさを滲ませた

お礼の手紙を文之進に書き送っています。


けれども、男勝りな女性です。

すぐに離縁されるのではないかと皆、気を揉んでいましたが、

意外にもここから寿の良妻ぶりは発揮されるのです。

当時、藩政は周布政之助を筆頭とする正義派

椋梨藤太を筆頭とする俗論派に分かれていました。

夫の伊之助は周布政之助と懇意だったので

正義派に属していましたが、政権がころころ変わるのが

長州藩良くないところでした。

夫に頼んでいた兄の釈放もなかなか叶いません。

そこで、寿は夫のために一計を案じます。

自ら決断して椋梨藤太の妻と気心を通じるべく、

近寄って行ったのです。これには夫の伊之助も困惑しましたが、

功を奏して正義派と俗論派の橋渡し的な存在になることができたのです。

ほどなくして、投獄されていた兄の松陰も釈放されました。

獄から兄を解き放ち、松下村塾を開くことができたのは、

まさしくこの寿のおかげだったのです。


三女「艶」が松陰の死生観を変えた?!


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生没年はハッキリとしませんが、「寿」と「」の間にもがいました。

あまりに早く亡くなったため「」が三女とされていますが、

実際には「」は四女で、三女別に存在したのです。

数少ない文献から、わずか2歳この世を去ったことがわかっています。

その妹の名前は「」と言いました。

松陰は儒教道徳によって育った人ですから、

本来は仏教とは異なる思想を持っています。

しかし松陰は艶の死をきっかけにして仏教に関心を持ち始め、

彼独特の解釈によって観音を信仰し、妹達にも勧めていました。

釈迦は若い頃、草木が枯れるのを見ただけでも命の儚さを知り、

生老病死の苦から逃れる方法を得るために出家をして修行をした。

修行の末、老いもせず病みもせず死にもしないことを悟り、

それから人々を教化した。それが仏教である。

と、前置きしてから「自分は死なないために信仰している」と書いています。

以下が千代に宛てたその手紙の内容になります。


「死なないということは、例えば釈迦とか孔子は死なない。
その日を立派に生きているから、人々は尊ぶし、有難いと思うし、
畏れもする。これが死なないということではないだろうか。

死なない人であるから、縄目も牢獄も斬首の座も、
この観音経の通りなのだろう。楠木正成や大石良雄などの人々も
刃物に我が身を失われたが、今も生きています。
すなわち、刀は彼らを斬ることはできなかった。刀の方が折れたのです」

この手紙の内容は「留魂録」に通じるものがあります。

艶の死によって松陰は仏教の思想とは何かを考えるようになり、

死生観を得ることができたのです。

そうだとするならば、艶の命は短いながらも

最も松陰に影響を与えたのかもしれません。


四女「文」本当は寡黙でおとなしかった??


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最後に大河ドラマ「花燃ゆ」の主人公となった「」ですが、

意外にも彼女はドラマに出てくるような

活動的な女性ではありませんでした。

どちらかといえば寡黙で、性格は慎み深く、

勝ち気な姉に何か言われても、じっと耐えるけなげさがありました。

空気を読むことに長けていて、自己を犠牲にしても

周囲の期待に添う行動をしてしまう妹のことを

松陰はとても心配していました。

自己主張をしない妹だからこそ、結婚相手にはしっかりと守ってもらいたい。

松陰がもっとも結婚相手に気を配ったのがこの「」でした。

松陰が結婚相手に考えたのは、弟子の久坂玄瑞でした。

村塾生達の世話をしていたでしたから、

塾生の久坂は気心も知れていて、

それほど抵抗はないだろうと考えたのです。

久坂も一度は「師の妹御だから」と断りはしましたが、

二度目の申し入れには承諾し、2人はめでたく結婚しました。

尊王攘夷活動で京や江戸で奔走していた久坂と一緒にいられる

時間はありませんでしたが、手紙をやりとりしながら、

は久坂家をしっかり守っていました。

しかし、2人の結婚生活は長くは続きませんでした。

夫の久坂は京で起った禁門の変自刀してしまったのです。

わずか7年の結婚生活、が22歳の時でした。


失意に暮れる文でしたが、なおも追い打ちをかける出来事が起こります。

京で夫は愛人を作っていて、子供までいることがわかったのです。

その子が男子だったことから、藩命により久坂家の家督を

相続することが決まったので、いきなりは久坂家とは

関わりのない人間になってしまいました。

生きることに絶望したでしたが、ちょうどその頃、

毛利家では嫡子となる興丸が生まれていました。

その養育係となるよう城から要請がきたのです。

文はその要請を受け入れます。

久坂家とも縁のなくなった身ですから

人生のやり直しをしようと思ったのかもしれませんね。

興丸養育係は、廃藩置県が施行されるまで続きました。

それからは、「寿」の求めで群馬県に移り住み、

病気で臥せっていた姉の看病と義兄の伊之助の

身の回りの世話に明け暮れます。

やがて姉が亡くなると、一度は杉家に戻りますが、

母の勧めもあって伊之助の後妻となりました。

人の求めに応じ続けるばかりの半生でしたが、晩年になり、

ようやく心穏やかに過ごせるようになったのです。

松陰も壮絶な人生ですが、妹たちもなかなかの波乱万丈な人生ですよね。^^;

引き続き、「歴史に隠された黒い噂と黒歴史」をお楽しみください!!

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