嫌い?好き?【徳川家康】の城から垣間見える秀吉との因縁とは!?

徳川家康 名古屋城 岡崎城 二条城 駿府城 出世城 引馬城 浜松城 江戸城 豊臣秀吉 因縁

 

天下人、「徳川家康」の城と言えば、江戸城名古屋城など

 

有名なお城が全国各地にあります。それらの城の多くに、

 

実は豊臣秀吉の影がちらついているのをご存知でしょうか?

 

人生の後半を豊臣家との戦いに費やした家康にとって、

 

当時の軍事拠点である城は、必然的に豊臣家を

 

意識したものにならざるを得ませんでした。

 

一方で、家康は長らく豊臣家を支える立場でもあったため、

 

豊臣家がであることは表向きには出せず、

 

複雑な胸中でもあったようです。そのことは、

 

家康のお城にも表れており、秀吉憎し!?と言わんばかりに

 

秀吉の城を壊してその上に建てたものもあれば、

 

秀吉の城をそのまま居住用にして大切にしたものもあり、

 

家康の秀吉に対する複雑な胸中を垣間見ることができます。

 

そこで、ここでは全国各地に点在する家康が居住した城、

 

建てた城についてご紹介するとともに、

 

城にまつわる家康と秀吉との因縁のエピソードをお伝えします。

 

  • 全国各地に点在する家康ゆかりの城!!
  • 【江戸城】 大阪城に徹底的に対抗するため築城?!
  • 【駿府城】 家康の城の下から秀吉の城が?!因縁の城とは?!
  • 【名古屋城】 「敵は豊臣家!」を意識して作られた城?!
  • 【伏見城】 秀吉の作った城だけど、居心地よくて好きだった?!

 

 

全国各地に点在する家康ゆかりの城!!

 

徳川家康 名古屋城 岡崎城 二条城 駿府城 出世城 引馬城 浜松城 江戸城 豊臣秀吉 因縁

 

家康は75年の生涯でいくつもの城に移り住んでいます。

 

またその中には、後世に残る有名な城も築城しています。

 

では、家康ゆかりの城には

 

どのようなものがあるのか見て行きましょう!!

 

岡崎城

 

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徳川家康の最初の居城で、誕生の場所でもあるのが

 

岡崎城」です。徳川家康の父、松平弘忠は岡崎城の主でしたが、

 

家臣の謀反で殺されてしまい、

 

岡崎城は今川義元の支配下となります。

 

その間、家康は義元の元で、岡崎城城主として

 

人質として過ごしまが、桶狭間の戦いによって

 

今川氏が滅亡すると、家康は独立し岡崎城に入城しました。

 

浜松城

 

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今川氏の配下の飯尾氏が支配していた

 

「引馬城」を家康は攻め落とし、名前を「浜松城」に改名。

 

岡崎城を嫡男の信康に引き継がせると、

 

家康は浜松城を居城としました。その後歴代城主の多くが、

 

江戸幕府の重役に出世したことから、

 

出世城」といわれています。

 

 

江戸城

 

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本能寺の変によって織田信長が亡くなると、

 

家康は豊臣秀吉から江戸に移るように命じられます。

 

徳川家康が入城した当初の江戸城は小規模でしたが、

 

増築を繰り返し国内最大規模の城郭を持つ、

 

徳川幕府の拠点となります。

 

駿府城

 

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駿府城」は家康が最も長く過ごした城です。

 

もともとは今川氏の居城で、家康は人質として

 

ここで幼少期を過ごしました。今川氏から独立後は、

 

秀吉の命で江戸に移るまで駿府城に住んでいます。

 

江戸城に移った後は将軍の座を息子の秀忠に譲ると、

 

再び駿府城に移り亡くなるまでここで過ごしました。

 

二条城

 

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二条城」は関ヶ原の戦いの後、家康の京都の

 

宿所として築城されました。信長の本能寺の変を受けて、

 

京都滞在の際は防衛力の高い城が必要、

 

と考え作ったと言われています。徳川家康と

 

大坂城主・豊臣秀頼が会見したのも、この二条城です。

 

名古屋城

 

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徳川家康が天下統一の最後の布石として建築したのが

 

名古屋城」です。家康の九男、義直の居城で

 

以降は徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城として

 

明治時代まで使われました。

 

 

【江戸城】 大阪城に徹底的に対抗するため築城?!

 

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家康が建てた城からは、城に対する秀吉との因縁を

 

色々垣間見ることが出来ます。

 

そのことが最もよく表れているのは「江戸城」です。

 

江戸城は秀吉が亡くなった後、家康が天守閣を建てますが、

 

その際には大阪城よりも立派な城に見えるよう

 

工夫がされていました。まず、高さについては

 

大阪城よりもなんと20メートルも高く作られたそうです。

 

更に当時、大阪城は

 

  • 黒漆喰の壁面
  • 黒漆の板張り
  • 燻し瓦の屋根

 

という全面が黒で統一されたものでした。

 

これに対して江戸城は、

 

  • 白御影石の石垣
  • 白漆喰の壁面
  • 鉛瓦の屋根

 

など白く統一され、

 

「房総半島から眺めると富士山と並んで雪山のように見えた」

 

と言わるほど。秀吉の黒い城は織田信長の城作りを

 

踏襲したものでしたが、家康は秀吉の城作りを踏襲せず、

 

敢えて真逆の白い城で豊臣への対抗心をアピールしたようです。

 

ちなみに、現代の私たちとって日本のお城というと

 

白いイメージですが、秀吉の時代は黒い城が主流でした。

 

その後、家康の命により徐々に、

 

黒い城は白い城に塗り替えられていき、

 

やがてその殆どが白い城に変わったのだそうです。

 

現在の私たちがイメージするお城は、

 

実は家康の城だったのですね。

 

なお、江戸城は築城から50年後の明暦の大火で、

 

天守閣が焼け落ちてしまいます。そして、その後、

 

再建されることはなかったのだそうです。

 

よくテレビの時代劇などに江戸城の天守閣が写っていますが、

 

実際とは違うそうですよ。びっくりですよね!

 

 

【駿府城】 家康の城の下から秀吉の城が?!因縁の城とは?!

 

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秀吉への対抗心を前面に打ち出して改修したのが「江戸城」なんですが、

 

家康は江戸城には殆ど住まず、秀忠に将軍職を譲った後は、

 

静岡の駿府城にて大御所政治を行います。

 

この駿府城、実は一時期、秀吉の配下の城となっていました。

 

小田原攻めの後、秀吉は駿府城の城主だった

 

家康に江戸に移るよう命じ、駿府城には秀吉の家臣、

 

中村一氏が入城しました。その際に秀吉は駿府城の改築を行い、

 

天守閣には秀吉の城の象徴である金箔瓦を使って

 

派手に装飾を施し、江戸の家康をけん制していたようです。

 

家康は将軍職を辞した後、駿府城に戻りますが、

 

その際に秀吉の城は壊して土で埋め、その上に自らの

 

駿府城を建設しました。この事実が分かったのは、

 

なんと2018年!!最近です。。^^;

 

それまで秀吉の城はどこにあるのか

 

分からない状態だったそうです。

 

まさか、家康の城の下にあったとは・・・

 

と発見当時人々を驚かせたそうです。

 

秀吉に城を奪われた悔しい気持ちから、

 

敢えて踏みつけたくなんたんでしょうかね?!^^;

 

また、駿府城天守台の大きさが日本一だそうです!?

 

でも家康の隠居後の城にしては随分立派なお城ですよね。

 

その理由は豊臣家が西から攻めて来た際に、

 

江戸城を守るためと言われており、防衛的にも

 

重要な城と位置付けていたようです。

 

つまり家康は隠居ではなく、息子を守るため

 

敢えて防衛拠点に住んでいた、ということになります。

 

隠居とは名ばかりで、亡くなるまで生涯現役

 

という気持ちだったのかもしれませんね。

 

 

【名古屋城】 「敵は豊臣家!」を意識して作られた城?!

 

徳川家康 名古屋城 岡崎城 二条城 駿府城 出世城 引馬城 浜松城 江戸城 豊臣秀吉 因縁

 

名古屋城」は家康が豊臣政権の大老として、

 

大阪城の豊臣秀頼を守るためという名目で

 

各大名に作らせたものでした。

 

しかし、実際には秀頼を守るどころか、

 

豊臣家の攻撃に対しての防衛拠点として作られていました。

 

例えば、城の正面は南に面していますが、

 

防衛としては北西を向いて設計されているそうです。

 

北西とはつまり、「西からの軍に備えている」ということ。

 

けれど正面は南に向けているのは、方角を間違える訳も無いので、

 

やはり家康の複雑な胸中の現れなんでしょうかね??

 

なお、名古屋のは家康の九男の義直に与えられました。

 

 

【伏見城】 秀吉の作った城だけど、居心地よくて好きだった?!

 

徳川家康 名古屋城 岡崎城 二条城 駿府城 出世城 引馬城 浜松城 江戸城 豊臣秀吉 因縁

 

最後にご紹介する城は、家康の城ではなく

 

秀吉が作った「伏見城」。この伏見城で秀吉が亡くなった後、

 

家康が入城し居城としていましたが、

 

関ヶ原の合戦の際に伏見城は一部を焼失します。

 

合戦の後、家康はすぐに伏見城を修復して、

 

再び住み続けます。更に家康はこの伏見城で

 

征夷大将軍の宣下を受け、以後、秀忠家光までの

 

3代が伏見城で征夷大将軍の宣下を受けたそうです。

 

あれだけ因縁の関係だった秀吉のお城に、

 

修復しながら積極的に住み続け家康の様子は

 

ちょっと意外ですね。秀吉城作りの名人だったと

 

言われていますが、その秀吉の終の棲家であった伏見城は、

 

相当住み心地のよいお城だったのかもしれません。

 

家康は秀吉への憎しみもあったでしょうが、

 

城作りの才能に関しては認めていたのかも?!

 

以上が家康の城にまつわる秀吉との因縁のエピソードでした。

 

改めて家康の城は、秀吉なしには語られないほど、

 

二人の深い繋がりを感じますね。

 

それは単なるというほど単純なものではなく、

 

時に憎く、時にリスペクト、というように二人の因縁の関係を

 

物語るようですね。そういう目線で家康のお城巡りをしてみるのも、

 

面白いかもしれませんね!

 

家康の謎の死因とは!?」も合わせてどうぞ!

 

引き続き、「歴史に隠された黒い噂と黒歴史」をお楽しみください!!

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