【徳川家康】将棋士がスパイだった!?家康が囲碁と将棋の名人を手厚く保護した目的とは?!

徳川家康 本因坊算砂 碁之法度可申付 チャトランガ 将棋士 囲碁 名人戦 スパイ

 

囲碁将棋と言えば、プロ棋士による

 

名人戦」などが有名ですが、この仕組みを作ったのは

 

徳川家康」だったのをご存知でしょうか?

 

囲碁と将棋は戦国時代に戦国武将たちに大変好まれましたが、

 

中でも徳川家康の囲碁と将棋好きは特に有名です。

 

家康は囲碁や将棋が好きであっただけに留まらず、

 

天下を取ると棋士たちに俸禄を与えて手厚く保護をしました。

 

これにより囲碁と将棋のプロ棋士が誕生し、

 

その人気は庶民にまで広がって現代に至ります。

 

つまり囲碁界、将棋界は徳川家康さまさま!なのです。^^;

 

更に私たちも家康がいなかったら囲碁や将棋の

 

名人戦を見ることは出来なかったかもしれません!?

 

では、家康はどうして囲碁と将棋を手厚く保護したのでしょうか?

 

囲碁や将棋が好きであったことは確かですが、

 

手厚く保護をした背景には家康らしい政治的意図もあったようです。

 

なぜなら、戦国時代の囲碁や将棋の棋士たちは、

 

スパイの如く!?色々な情報を持っていたからです。

 

そこでここでは、徳川家康の囲碁と将棋に関わるエピソードと、

 

名人たちを手厚く保護をした目的について諸説をご紹介いたします!

 

  • 囲碁将棋はどこで生まれて、違いは何なのか?
  • 日本に入ってきたのはいつ頃??
  • 戦国時代には武将たちの間で大人気だった?!
  • 三英傑を渡り歩いた棋士、本因坊算砂とは?
  • 家康によって囲碁、将棋のプロ棋士が誕生!
  • 棋士はスパイだった!?家康が棋士を保護した本当の目的とは?
  • 天下人となった後の家康と算砂のエピソード

 

 

囲碁と将棋はどこで生まれて、違いは何なのか?

 

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まずは囲碁と将棋の起源と、違いについてご紹介します。

 

囲碁の起源は四千年前の中国と言われており、

 

古代中国の皇帝が囲碁を創って子どもにをしたという説や、

 

碁盤は宇宙、碁石は星のかわりで、

 

占いに使ったという説があります。

 

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一方、将棋の起源は、紀元前の古代インドで発明された

 

チャトランガ」という盤上遊戯と言われています。

 

このチャトランガは8×8の盤面で

 

 

の五種の駒で行うゲームで、もとは四人制であったようですが、

 

その後二人制にルールが変更され、これが世界に広まって

 

西洋のチェスや日本での将棋原型になっていきました。

 

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では、囲碁と将棋はどのような違いがあるのでしょう?

 

一番大きな違いはゲームの目的です。

 

  • 将棋・・・相手の王将(一番大事な駒)を先に取るゲーム
  •  

  • 囲碁・・・より多く自分の陣地を獲得するゲーム

 

また難易度については、将棋が古代インドの戦争をゲームとして

 

発展したことから分かりやすいのに比べ、

 

囲碁は古代中国の占いが発展したものであるせいか

 

捉えどころのない感覚があり、慣れるまでに時間がかかるようです。

 

それは局面の数にも表れていて、

 

将棋は10の71乗、囲碁が10の160乗で、

 

囲碁の方が将棋よりも局面が多く複雑です。

 

 

日本に入ってきたのはいつ頃??

 

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囲碁が日本に入ってきたのは6〜7世紀といわれており、

 

7世紀の隋書・倭国伝には「日本人は囲碁を好む

 

という記載があるそうです。古今和歌集、源氏物語、

 

枕草子等の古典でも囲碁について書かれており、

 

上流階級の間で流行っていたようですが、

 

中世以降は庶民にも普及します。

 

一方将棋は10世紀にはまだ日本で「将棋」という

 

ゲームは知られていなかったそうでが、11世紀になって

 

将棋盤が見つかっています。その結果、将棋が日本に伝わったのは、

 

10世紀末から11世紀初め頃ではないか、と推測されています。

 

 

戦国時代には武将たちの間で大人気だった?!

 

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戦国時代になると、武将たちの間で

 

囲碁将棋が大変好まれました。

 

将棋は戦争ゲームとして発展していますし、

 

囲碁も中国では兵法を養うための手段として

 

利用されてきましたので、戦国武将らの間で

 

囲碁や将棋が流行るのは当然のことかもしれません。

 

更に当時、兵士たちの賭け事は禁止されていましたが、

 

囲碁・将棋は実践に応用できることから奨励されていたそうです。

 

特に囲碁や将棋を好んだ武将としては

 

武田信玄伊達政宗の他、天下人の織田信長豊臣秀吉

 

徳川家康が有名です。そして、その陰には囲碁と将棋の天才棋士、

 

本因坊算ほんいんぼう さんさ)」の存在がありました。

 

 

三英傑を渡り歩いた棋士、本因坊算砂とは?

 

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本因坊算砂」は京都生まれの僧で、8歳のときに

 

寂光寺開山の日淵に弟子入りして出家し、

 

仏教の修行の傍ら囲碁の強豪として知られていた

 

仙也」に師事して囲碁を学びました。

 

そこで算砂は囲碁と将棋の抜群の才を示し、

 

やがて織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の

 

3人に仕えることになります。

 

算砂と織田信長との出会いは算砂が十九歳のとき、

 

信長が上洛の際に寂光寺に立ち寄り、本因坊算の

 

囲碁の腕前を見物する機会がありました。

 

このとき信長は算砂を「まさに神業、名人の技だ」絶賛し、

 

これが囲碁・将棋の達人を「名人」と言った始まりだと言われています。

 

以後、信長は上京するたびに算砂を呼び出し、

 

自ら指導を受けたり、対戦を見物したそうです。

 

その後、本能寺の変で織田信長が亡くなり豊臣秀吉が天下人となると、

 

秀吉は碁打ちの名手をかき集め御前試合を開催しました。

 

このとき優勝を果たしたのは算砂でした。御前試合での

 

算砂の圧倒的な強さに感激した秀吉は、

 

碁之法度可申付」という朱印を与えたそうです。

 

秀吉はその後もしばしば碁会を催したそうですが、

 

この碁会の席に算砂が招かれるのは恒例となっていました。

 

そして、その際に徳川家康もしばしば上洛し数カ月も滞在しては、

 

連日にわたって碁会を楽しんでいたそうです。

 

そのため算砂と家康は次第に交友が深まり、

 

後に家康は算砂を駿府にも招いています。

 

こうして算砂は、信長、秀吉、家康の三英傑から

 

寵愛を受けることになりますが、3人の中で最も囲碁・将棋を愛し、

 

算砂を重んじたのは徳川家康でした。

 

 

家康によって囲碁、将棋のプロ棋士が誕生!

 

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家康は徳川幕府を開いて将軍に就任すると、

 

囲碁の棋士に俸禄を支給し保護をしました。

 

その際に算砂は、将軍の指南役となると同時に、

 

棋士の昇段など囲碁界の一切を取り仕切る

 

囲碁・将棋界最高峰の地位「名人碁所」に就きました。

 

これによって幕府公認の囲碁・将棋のプロ棋士が誕生し、

 

家元制度も完成しました。

 

この徳川幕府の保護によって、囲碁や将棋の棋士の

 

生活は安定します。結果、棋士たちは日々研究に打ち込み、

 

武士や町人に指導して囲碁・将棋を広めたそうです。

 

囲碁と将棋の庶民普及の背景には家康の力がとても大きかったのですね。

 

 

棋士はスパイだった!?家康が棋士を保護した本当の目的とは?

 

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信長や秀吉は、家康同様に囲碁や将棋を愛好し

 

棋士たちを度々呼び寄せていましたが、それはあくまで

 

遊戯としての楽しみでありました。一方家康は、

 

徳川幕府を開くと棋士たちに俸禄を与えると同時に、

 

碁所という行政の一機関としての役職を与えるほど

 

手厚い保護をしています。その理由として囲碁や将棋を

 

深く愛好していたことだけでなく、

 

政治的な目的」もあったと言われています。

 

特に家康に深く関わっていたのが本因坊算砂です。

 

算砂は戦国武将たちとの交友だけでなく、

 

公家との交友関係も深く天皇とも繋がりがあった

 

と言われています。また算砂は経済にも明るく

 

商人たちとの交友関係もありました。そのため、

 

天下を狙う家康にとって、算砂の多方面の人脈と情報

 

大変貴重だったのでしょう。実際に家康が碁会を開催したのは、

 

豊臣秀吉が亡くなる前後や関ケ原の戦いの前後、

 

大坂の陣の前など重要な出来事の節目で、

 

碁会の裏で算砂をはじめとする棋士たちから

 

様々な情報を収集していたのかもしれません。

 

こうしたことから、囲碁や将棋の棋士に幕府が俸禄を与えたのは、

 

算砂をはじめとする棋士たちによる長年の

 

諜報活動貢献への対価、とも言われています。

 

 

天下人となった後の家康と算砂のエピソード

 

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家康は秀忠に将軍の座を譲って駿府に隠居すると、

 

囲碁・将棋三昧の日々を送ったそうです。

 

特に浅野長政伊達政宗との対局を好んだそうですが、

 

自身が不利になってくると、側近が算砂をそっと近くに行かせていたそう。

 

算砂は日よけの傘に開けた小さな穴からをもれさせ、

 

家康が打つべき場所を示した、というようなエピソードもあります。

 

たとえ遊びであったとしても、天下人の徳川家康としては

 

プライドにかけて負けるわけにはいかったのですかね?!^^;

 

また、算砂は伊達氏と前田氏から同時に招待を受けた際、

 

仙台は京都からは遠いので金沢に二年間滞在したそうです。

 

ただし前田氏は豊臣秀吉の五大老の一人でありあったため、

 

家康は警戒していました。そこで前田氏は算砂のために寺を建立して

 

寄進したそうです。これは算砂を厚遇することで

 

家康に対する忠誠心を示すもので、

 

それだけ算砂と家康との関係は深かったようです。

 

以上が徳川家康の囲碁、将棋に関わるエピソードと、

 

彼が囲碁と将棋を手厚く保護をした目的のご紹介でした。

 

私たちが現在、将棋や囲碁の名人戦などを楽しめるのは

 

家康のお陰であり、徳川260年の礎だけでなく、

 

囲碁・将棋400年の礎を作った家康の先見の明には改めて感服ですね。

 

家康の謎の死因とは!?」も合わせてどうぞ!

 

引き続き、「歴史に隠された黒い噂と黒歴史」をお楽しみください!!

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