【徳川家康】は日光東照宮に埋葬されていない?!家康のお墓にまつわるミステリーとは?!

徳川家康 お墓 死因 胃がん 食中毒 天海 徳川実記

 

徳川幕府260年の礎を作った【徳川家康】は、

 

75歳でこの世を去り日光東照宮に祀られています。

 

現代に生きる私たちは、日光東照宮は家康のお墓で、

 

家康の亡骸も東照宮に埋葬されている・・・

 

となんとなく思っていますが、実は日光東照宮は

 

家康のお墓ではないかも!?更には、日光東照宮には

 

家康の亡骸がないかも!?という説があるのをご存知でしょうか?

 

家康のお墓をめぐっては現代でも解明されていない

 

ミステリーがあるのです。では、家康のお墓はいったいどこにあるのでしょう?

 

そして亡骸はどこにいってしまったのでしょうか?・・・

 

ここでは、家康のお墓にまつわるミステリーについて見て行きたいと思います!!

 

  • 食中毒?胃がん?家康の本当の死因とは?!
  • 天下人は死後も大変!思い通りにならない家康の遺言とは?!
  • 徳川三代に使えた影の参謀、天海の正体とは?
  • 天海と二代将軍秀忠の利害が一致した日光東照宮!!
  • 三代将軍家光までも操った天海・・・日光東照宮が豪華な理由とは?!

 

 

食中毒?胃がん?家康の本当の死因とは?!

 

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徳川家康」は人生50年と言われた時代に

 

数えで75歳まで生きています。とても長寿だったのですね。

 

家康は趣味の鷹狩りに行った際に倒れ、

 

お見舞いで届けられた「鯛の南蛮漬け」を食べて激しい腹痛を起こし、

 

その3カ月後に亡くなってしまいます。このため家康の死因は、

 

鯛の南蛮漬けによる「食中毒」、とされてきましたが、

 

最近ではこの説は信憑性が薄いと言われています。

 

それは、この腹痛が食中毒だったとすれば食べてから

 

3カ月後に亡くなるのは時間がかかり過ぎているからです。

 

 

<徳川実記>

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この食中毒説に代わって、現代でもっとも有力とされている死因は「胃がん」です。

 

その根拠になったのは、江戸幕府が編纂した歴史書「徳川実記」。

 

この実記には亡くなる前の家康の健康状態が詳しく記されており、

 

それによると、家康は亡くなる前にどんどん痩せていき、

 

吐血、黒色便の症状の他、お腹に大きいしこりがある、

 

と書かれているそうです。これは現代医学で見ると、

 

胃がん患者に多くみられる症状であることから、

 

歴史家の間では家康の「死因は胃がん」ではないかと考えられています。

 

 

天下人は死後も大変!思い通りにならない家康の遺言とは?!

 

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現代人から見ると意外?!家康の遺言の中身とは??

 

このようにして、死の3カ月前から床に伏していた家康ですが、

 

やがて自らの死を予見し、側近らを枕元に呼び寄せ、

 

遺言を残してこの世を去りました。その遺言は次の通りです。

 

「久能山に納め、御法会を江戸増上寺、
靈牌は三州大樹寺、御周忌終て下野国日光山へ小堂を營造、
京都には金地院に小堂をいとなみ所司代はじめ武家の輩進拜せしむべし。」

 

この遺言の意味は、

 

  • 遺体は駿府城の近くの久能山に納めること。
  • 葬儀は江戸の増上寺で行うこと。
  • 位牌は三河の大樹寺に建てること。
  • 1周忌を過ぎたあとに、日光に小さなを建てて、関東の鎮守として勧請するように。
  • 京都の金地院にも京都所司代(東照宮)を造り参拝するように

 

という内容でした。

 

遺体は駿府城の近くの久能山に納めること」・・・つまり、

 

お墓は静岡県の久能山になります。

 

また、「日光に小さな堂を建てて」・・・日光東照宮は

 

小さなお堂にしてほしい、と家康は希望していたのでした。

 

しかし、現代の私たちがこの遺言を読むと意外な感じがしませんか?

 

なぜなら、家康のお墓は日光東照宮と言われていますし、

 

その日光東照宮は大きく絢爛豪華な造りで、

 

とても「小さなお堂」とは言い難いですよね??

 

どうして、家康の遺言と実際は違ってしまったのでしょうか?

 

 

無視された?家康の遺言・・・

 

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家康は遺言で、

 

「1周忌を過ぎたあとに、日光に小さな堂を建てて、
関東の鎮守として勧請するように」

 

と伝えていますが、この遺言の「勧請」とは、

 

分身や分霊を他の地に移して祀ることで、

 

亡骸を移すということではありません。ですから、

 

家康の遺言の意味は「家康の亡骸は久能山にそのままにしておく

 

ということになります。しかし、結局この意向は無視され、

 

1年後に亡骸は久能山から日光に移されます。

 

また日光東照宮は当初、家康の遺言の通り

 

小さなお堂だったようですが、三代将軍家光によって

 

豪華絢爛な作りに建て替えられます。

 

この裏には、「天海」という僧の働きがありました。

 

 

徳川三代に使えた影の参謀、天海の正体とは?

 

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天海」とは天台宗の高僧で、なんと!108歳まで生き!?

 

家康・秀忠・家光の徳川三代に仕えた徳川幕府の陰の参謀です。

 

天海武田信玄に仕えた僧でしたが、

 

72歳のときに家康と対面します。この出会いで

 

家康は天海にすっかり魅了され、

 

遅すぎた出会いを嘆くほど高く評価したそうです。

 

以後、天海は家康の参謀として様々な助言をします。

 

特に天海は風水に長けており、家康が幕府を開く際にも、

 

その本拠地として「江戸」を薦めたそうです。

 

そして都市プランナーとして江戸城の場所決め、

 

江戸城の掘り設計、鬼門の鎮護、など、

 

風水陰陽道に基づいた江戸の街を構築しました。

 

更に天海は家康の死後、その葬事の主導権を徐々に握ります。

 

 

例えば家康の葬事は遺言に基づいて久能山で執り行われましたが、

 

葬事を任された金地院崇伝が吉田神道によって仕切ったところ、

 

このやり方に天海を唱えます。理由は家康が生前に、

 

葬事は吉田神道に偏することなく、神仏習合にて行うよう

 

遺言を残したから、というもの。しかし実際のところは不明です。

 

更に家康の神号を決める際に、金地院崇伝が

 

神号を神道界でしか通用しない「大明神」としたところ、

 

「大明神」は秀吉を祭祀した「豊国大明神」と同じで不吉であるとして、

 

天海は仏教界にも通じる神号「大権現」を主張します。

 

結果的に天海の主張が通り、家康は「東照大権現」として

 

神仏習合で祀られることになりました。

 

 

天海と二代将軍秀忠の利害が一致した日光東照宮!!

 

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日光東照宮をお墓にしたかった秀忠の事情とは?

 

天海が家康の葬事の主導権を握った背景には、

 

2代将軍秀忠のバックアップもありました。家康は生前、

 

駿府の大御所政治を行っていたため、

 

秀忠としてはその残影を払拭し、江戸への一元化を

 

図りたい思惑がありました。また、駿府には駿府城主、

 

徳川頼宣の存在がありました。頼宣は家康の十男で

 

晩年の家康が手元に置いて教育をしていたため、

 

優秀であったそうです。その頼宣のいる駿府が、

 

徳川家の精神的象徴となる久能山の守護にあたるのも

 

都合の悪いことでした。この状況は、天海にとっては渡りに船。

 

なぜなら天海は、自身が住職を務める、

 

日光山の再興」を目論んでいたからです。

 

そして秀忠の憂慮を上手く利用して、日光東照宮を

 

家康の墓とするプランを秀忠に進言し、バックアップを得たのでした。

 

 

家康の亡骸をカモフラージュ?!そして今も続くミステリー??

 

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家康の1周忌を過ぎたあと、遺言にしたがって

 

御霊が久能山から日光に移されますが、

 

この際に実際に亡骸も移されたのかは“”とされています。

 

その理由として、となる亡骸は本来、人目につかぬように

 

運ばれますが、日光への改葬では、棺は金の神輿

 

ゆっくりと人目につくように運ばれており、

 

あまりに大袈裟であったことから、カモフラージュでは!?

 

と言われているのです。それを裏付けるかのように、

 

改葬を取り仕切った天海は

 

「あればある無ければなしと駿河なる くのなき神の宮うつしかな」

 

という和歌を残しており、「くのなき」は「躯(く)=むくろ=のなき」と読むと、

 

まさにカモフラージュ説そのもの!?さすがに天海と秀忠も、

 

家康の遺言を無視することには抵抗があり、

 

カモフラージュするしかなかったのでしょうか。

 

尚、久能山も日光も発掘調査は行われないため、

 

家康のお墓がどこにあるのかは今もミステリーのままです。

 

ただし・・・徳川宗家は代々、久能山にお墓参りをしているそうです。

 

これの意味するところは?!結局のところ・・・^^;

 

 

三代将軍家光までも操った天海・・・日光東照宮が豪華な理由とは?!

 

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このようにして、秀忠と天海の意向で

 

徳川家康のお墓となった日光東照宮ですが、

 

当時は家康の遺言通り小さなお堂だったようです。

 

それが18年後に、三代将軍家光によって

 

荘厳な社殿への大規模改修が行われることになりました。

 

その裏にはまたしても天海がいました。

 

家康の御霊は日光に移されましたが、

 

もとのお墓であった久能山の東照宮は大変豪華な造りで、

 

にわか造りの日光東照宮とは比べものにならなかったそうです。

 

天海にすれば、自分が支配する日光東照宮が見劣りをすることは

 

気に入らなかったけれど、秀忠が健在である間は、

 

家康の遺言を無視することはできない。

 

そこで天海は秀忠が亡くなるとすぐに、祖父家康を崇拝していた

 

三代将軍家光に、日光東照宮の大造営を勧めます。

 

家光としても、徳川幕府の力強さを天下に知らしめる

 

一大事業としてこの案を受け入れ、結果、家康の遺言は

 

またしても無視されることとなりました。

 

全ては徳川家の参謀であった天海の仕業だったのですね。

 

以上が、徳川家康のお墓にまつわるミステリーでした。

 

尚、家康のお墓をめぐっては2015年に、

 

徳川御宗家第18代当主である徳川恒孝さんによる

 

久能山東照宮神廟への墓参りがNHKで全国に報じられました。

 

ミステリーが解明される日は近いかもしれませんね!?^^

 

家康の謎の死因とは!?」も合わせてどうぞ!

 

引き続き、「歴史に隠された黒い噂と黒歴史」をお楽しみください!!

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