【徳川家康】の【名言】から垣間見える地味キャラの理由とは?!

徳川家康 名言

 

戦国時代の天下人と言えば、

 

  • 織田信長
  • 豊臣秀吉
  • 徳川家康

 

ですが、不思議な事に一番成功したはずの【徳川家康】は、

 

あまり人気が無いとはおもいませんか?

 

織田信長には個性的で武将としての天才的な魅力があり、

 

豊臣秀吉には農民から天下人となる下剋上の魅力がありますが、

 

家康には信長のような華々しさや秀吉のような

 

ドラマティックなイメージがないためでしょうか。

 

しかし家康の華々しさやドラマティックさとは無縁の地味キャラは、

 

実は意図したものであり、信長秀吉反面教師として

 

学んだ結果でもありました。そのことは、家康が残した

 

数々の【名言】の端々からうかがうことが出来ます。

 

その結果、信長や秀吉がなし得なかった本当の意味での

 

天下統一を果たし、長期政権を確立できたのです。

 

そこで、ここでは家康が信長や秀吉を反面教師として

 

学びながらどのように天下を取り、

 

徳川260年の礎を築いたのかを、名言を通して解説いたします!

 

  • 脱糞した!?情けない自分を常に忘れず、家康が行った事とは?!
  • 自分の名を残すより、天下人を存続させることの方が大事だった?!
  • 質素・倹約・謙虚・慎重・・・地味キャラこそが末代まで栄える秘訣!!
  • 家康の哲学が濃縮された名言!!「東照宮御遺訓」とは?!

 

 

脱糞した!?情けない自分を常に忘れず、家康が行った事とは?!

 

徳川家康 名言

 

徳川家康】が天下統一を成し遂げた背景には、

 

徳川家の強力な家臣団の存在があります。

 

家康は自分自身の存在が家臣によって助けられていることを、

 

若い時から自覚し、家臣を大切にしてきました。

 

一方で織田信長、豊臣秀吉が天下を取りながらも

 

盤石な基盤を作れなかった要因は、

 

家臣との信頼関係が希薄」であったこと、と見抜いていました。

 

そのことを、家康の名言からみてみましょう。

 

「一軍の将たる者は、味方諸人のぼんのくばかり見ていて合戦に勝てる者にてはなし」

 

家康が30歳のときの三方ヶ原の戦いで、

 

武田信玄(武田信玄の死因とは?!)に大敗したときに言った言葉です。

 

「一手の軍に将たる者が、味方の盆の窪
(=首の後ろの中央のくぼんだ部分)
ばかり見ていて合戦に勝てるものではない。」

 

という意味。三方ヶ原の戦で家康は、武田信玄の大将としての

 

勇敢な姿に感銘を受け、大将自らが戦闘力を示さねば

 

勝てないことを学んだのでした。そんな信玄の名言は、

 

『人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵』

 

彼は主従の絆と信頼関係や家臣団全体の組織力や結束力

 

非常に重視しており、この考え方はその後の

 

家康に大きな影響を与えました。

 

また、この戦で家康の軍は沢山の討死者を出しました。

 

彼らが最後まで家康を守るために勇敢に戦ったことが

 

家康に伝えられると、自分のために命懸けで戦った家来たちの

 

死を無駄にしてはならない、と心に誓ったそうです。

 

更に、恐怖のあまり脱糞して!?命からがら浜松城へ

 

逃げ帰った直後の、情けない自らの姿を絵師に描かせ、

 

その絵を生涯離さなかったと言われています。

 

そこまでできる人間もなかなか居ないと思いますし、

 

こういった不名誉な体験でも忘れずに教訓とし、

 

家康は自分を含めて人の心をコントロールする術を学んでいたんですね。

 

 

「器物は何ほどの名物にても、 肝要の時に用に立たず。 宝の中の宝といふは人にて留めたり」

 

徳川家康 名言

 

この言葉は秀吉が家康に対し、自分は天下の宝

 

大半を集めたことを自慢し、「おぬしの宝は何か?」と

 

家康に尋ねたときに返した言葉。

 

「器物はどんな名物であれ、肝心なときに役に立たない。
宝の中の宝というのは人材である。」

 

という意味で、家康は 【家来こそが最高の宝】と言ったのです。

 

秀吉は赤面して返答をしなかったそうです。

 

バツが悪かったのでしょうね。^^;

 

往々にして、お金持ちや権力を持った人ってこういう

 

側面があるように思うのは私だけでは無いはず?!(笑)

 

「およそ主君を諫める者の志、 戦いで先駆けするよりも大いに勝る」

 

徳川家康 名言

 

この言葉は

 

「主君への諫言は、戦場での先駆けの功名よりも勝る」

 

という意味です。当時に、主君へ諫言(いさめること)することは

 

盾をついたとみなされ「処罰」のリスクがとても高く、

 

妻子・子孫にまでそれが及ぶことがあり、

 

家臣にとっては大変危険な行為でした。

 

ですが家康は、そこまでしての諫言

 

大変価値があると考えていたようです。

 

大将がこのような考えならば、家臣は意見を言いやすいですよね。

 

これが信長だったら、片っ端から殺していたかも!?

 

それでは家臣がビビッてよい意見は出てこないどころか、

 

信長は家臣に殺されてしまったところを見ると、

 

家康のこの言葉は正しいと思えますね。

 

 

「およそ人の上に立って、下の諌めを聞かざる者の、国を失い、家を破らざるは、古今とも、これなし」

 

「人の上に立って家来の諌めを聞かなかった者が、
国を失って家を滅ぼすこともなかった、
という例は昔をみてもない。」

 

という意味。これは信長のこと?秀吉のこと?

 

と勘繰りたくなりますが、家康は歴史から学ぶことを

 

非常に重んじて沢山の書物を読んでいたそうです。

 

歴史からも家臣の大切さを実感していたのでしょうね。

 

自分の名を残すより、天下人を存続させることの方が大事だった?!

 

徳川家康 名言

 

「何にも構はず、我等跡にて、天下二代も三代も
替らざる様に、国風すなほの仕置、工夫、思案の分別は、
大仏何体建立にも、遥かにまさるべきと思ふぞ。」

 

この言葉は

 

「自分が死んだ後、天下が2代も3代も
続いて替わらないよう、工夫・思案するのは、
大仏を何体も建立することよりもはるかに勝るものだ。」

 

という意味で、暗に秀吉をディスった言葉・・・と言われています。

 

秀吉は巨大な大阪城を築城したり、方広寺の大仏を造営して

 

後世に名を残そうとしましたが、その際に地味で倹約家の家康を

 

非難していたそうです。そういう秀吉の態度に対して家康は、

 

「そんなことより、もっと大事なことがあるだろう」

 

と内心思っていたでしょうね。^^;

 

 

質素・倹約・謙虚・慎重・・・地味キャラこそが末代まで栄える秘訣!!

 

徳川家康 名言

 

家康は、為政者が信長や秀吉のような自己中心的で

 

派手な生活、傲慢な態度では、末代まで栄え続けることは

 

難しいと考え、後継者や家臣、大名らに対して、

 

様々な戒めの言葉を残しました。それらをご紹介します。

 

「五字にていわば、上を見な。七字にていわば、身のほどを知れ」

 

これは、「天下をとった秘訣を教えてほしい」と聞かれた際に

 

家康が答えた言葉で、

 

  • 五文字で言えば「上を見るな
  • 七文字で言えば「身の程を知れ」」

 

という意味。上ばかり(信長や秀吉)見て焦るのではなく、

 

現状分析をして確実に一歩ずつ進めていったのが

 

天下を取った秘訣、ということで、慎重な家康らしい言葉ですよね。

 

こういった考えは現代でもトヨタ自動車の考え方、

 

発展の仕方に通じているようにも思いますね。

 

同時に「身の程を知れ」という言葉から、かつて恐怖で脱糞した!?

 

自分を常に忘れないことが天下に繋がった、とも読み取れますね!?

 

「天下は天下之人の天下にして、我一人の天下とは思ふべからず。国も又、一国之人の国にして、一人の国にはあらず。」

 

「この天下(日本)は天下に住んでいる人々の天下であり、
自分一人の天下と思ってはならぬ。国もまた、
その国に住んでいる人々の国であり、一人(大名)の国ではない。」

 

という意味で、これは跡継ぎの秀忠や諸大名に

 

あたえた教訓の言葉と言われています。

 

 

家康の哲学が濃縮された名言!!「東照宮御遺訓」とは?!

 

徳川家康 名言

 

最後に、家康が2代将軍秀忠に与えた

 

天下政道についての訓戒をご紹介しましょう。

 

この訓戒はのちに東照宮御遺訓として

 

世に知られるようになりました。

 

家康の哲学が濃縮された名言です。

 

人の一生は重荷を負って遠き道をゆくがごとし いそぐべからず
不自由を常とおもへば不足なし
こころに望みおこらば困窮したる時を思ひ出すべし
堪忍は無事長久の基 怒りは敵と思へ
勝事ばかり知て負くることをしらざれば害其身に至る
おのれを責て人をせむるな
及ばざるは過ぎたるよりまされり

 

意味は次の通りです。

 

人の一生というのは重荷を背負って
  遠い道を行くようなもので、急いではいけない。

 

不自由を常と思えば不満は湧き上がらない。

 

欲が生じたならば、苦しかった時を思い出せばよい。

 

忍耐が無事に長く安らかでいられる基礎であり、怒りは敵と思え。

 

勝つことばかり知り、負けを知らなければ、その身に害が及ぶ。

 

自分を責め、他人を責めるな。

 

何事も及ばないほうが、やり過ぎるほうよりはよい。

 

いかがでしたか?家康の地味キャラはもともとの性格というより、

 

信長、秀吉を反面教師とし、更に数々の歴史書から学ぶ中で

 

作られたものであったことが、

 

家康の名言】から伝わってきたのではないでしょうか。

 

特に晩年は、自分の功績を残すことよりも、

 

地味に生きることを末代にまで伝えることに情熱を注ぎ、

 

結果、徳川260年の礎を築きました。

 

家康の地味キャラの功績は大きいですね!

 

家康の謎の死因とは!?」も合わせてどうぞ!

 

引き続き、「歴史に隠された黒い噂と黒歴史」をお楽しみください!!

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