黒幕は【徳川家康】!?家康の正室【築山】殿の死と悪女説の裏にあった陰謀とは?

徳川家康 正室 築山殿 瀬名 岡崎城 岡本時仲 石川義房

 

徳川家康正室の「築山」殿ってご存知でしょうか?

 

築山殿は天下人の徳川家康の正室ですから、

 

同じく天下人の豊臣秀吉の正室の北政所のような、

 

夫の出世を陰で支える聡明な女性を

 

イメージする人が多いかもしれません。

 

ですが築山殿は聡明どころか悪女として名高く、

 

徳川家の敵将、武田勝頼と通じて、

 

織田信長と家康を滅ぼそうとした疑いで、

 

家康によって殺害されているという驚きの運命をたどった女性でした。

 

しかし一方で、築山殿殺害の裏には不仲の妻を排除したい

 

家康の思惑があったという説もあります。

 

更に築山殿の悪女説は家康の名誉を守るための創作の可能性も!?

 

そこで、ここでは家康の正室、築山殿の

 

悪女説にまつわる、家康の陰謀!?をご紹介します。

 

  • 徳川家康の正室、築山殿とは?!
  • 世間を震撼させた築山殿殺害事件とは?
  • 織田信長は徳川家康によって悪者に仕立て上げられた?それともグル?
  • 実は悪女ではなかった?!創作された築山殿の悪女説とは?!

 

 

徳川家康の正室、築山殿とは?!

 

徳川家康 正室 築山殿 瀬名 岡崎城 岡本時仲 石川義房

 

家康との出会いがそもそも不幸の始まり!?

 

徳川家康は幼少期に今川義元人質となり、

 

駿府(現在の静岡県静岡市)で12年間を過ごします。

 

人質となった背景は、家康の父、松平広忠が、

 

隣国の織田氏に対抗するため今川義元の力を借りようと、

 

息子を人質として差し出したのでした。

 

今川義元のもとで幼少期を過ごした家康は

 

元服をすませ16歳のときに、今川家の重臣で義元の妹を妻に持つ

 

関口義広の娘・「瀬名」(後の築山殿)と結婚をしました。

 

人質の身で義元の妹の娘を妻にできたわけですから、

 

家康にとっては逆玉の輿の結婚だったようです。

 

しかし、この結婚が後の築山殿の不幸に繋がっていきます。

 

桶狭間の戦い後の家康の裏切り

 

徳川家康 正室 築山殿 瀬名 岡崎城 岡本時仲 石川義房

 

結婚をした二人の間には嫡男の信康亀姫が生まれました。

 

しかし、亀姫が生まれる直前の桶狭間の戦いで、

 

今川義元織田信長に討たれてしまいます。

 

義元の死により晴れて人質の身から解放された家康は、

 

駿府には戻らず松平家の本拠地で

 

自身が生まれた岡崎城に入ります。

 

そのため駿府に取り残された瀬名信康ら子供たちは、

 

今川氏の人質に。この時、家康の裏切りに怒った

 

今川氏真は、徳川の人質十数人を串刺しにするなどして

 

殺害したそうです。そんな恐怖の日々を過ごした家康の妻子は、

 

桶狭間の戦いから2年後に、徳川家と今川家との

 

人質交換によってなんとか岡崎に戻ることが出来ました。

 

家康のいる岡崎に行って益々不幸に

 

徳川家康 正室 築山殿 瀬名 岡崎城 岡本時仲 石川義房

 

せっかく家康のもとに戻った瀬名でしたが、

 

次々と不幸が襲います。まず、瀬名たちの人質交換は

 

今川氏真の怒りを買い、氏真は瀬名の両親に自害を命じます。

 

なんと!!瀬名の為に両親は自害してしまったのでした。。。

 

更に岡崎では、家康に岡崎城への入場を拒まれます。

 

当時の家康は、今川義元を討った織田信長と

 

同盟関係にあったため、今川家一門の瀬名の入城は

 

都合が悪かったのでした。代わりに家康は、

 

岡崎城近くの築山という場所に御殿を築いて瀬名を住まわせた。

 

このことから、瀬名は以後「築山殿」と呼ばれました。

 

せっかく夫のもとに戻ったのに、親は自分のせいで死んでしまい、

 

更に夫によって隔離されるなんて悲し過ぎますよね。。。

 

 

世間を震撼させた築山殿殺害事件とは?

 

徳川家康 正室 築山殿 瀬名 岡崎城 岡本時仲 石川義房

 

悲劇の発端となった息子信康の結婚

 

当然のことながら、築山殿は家康の対応に不満を持ちます。

 

それなのに家康は、築山殿の不満を

 

更に募らせるような行為に出ます。

 

家康は嫡男の信康を9歳の若さで織田信長の娘、

 

徳姫結婚をさせたのでした。築山殿にしてみれば、

 

自分の息子が今川義元を討った信長の娘と結婚するなど、

 

堪えがたいことであったでしょう。

 

この結婚で家康への更なる不満を募らせた築山殿でしたが、

 

その矛先は息子の嫁である徳姫に向かいます。

 

嫁姑の戦いは最悪の結末に?!

 

徳川家康 正室 築山殿 瀬名 岡崎城 岡本時仲 石川義房

 

そのきっかけは、家康が岡崎城を信康に任せて

 

浜松城に移ったことでした。岡崎城を任された信康は、

 

城の外の隔離されていた母を不憫に思い

 

岡崎城に呼び寄せます。しかし、築山殿にとって

 

宿敵の織田信長の娘と同じ屋根の下に暮らして

 

上手くいくはずがなく、この同居で二人は

 

しばしば衝突するようになります。それにともない、

 

信康と徳姫の夫婦仲も悪化していきます。

 

 

信康と徳姫の不仲は信長の手前、

 

徳川家にとって大きな問題であり、

 

家康は二人の仲裁のためにわざわざ岡崎を訪れています。

 

しかし家康の仲裁の甲斐もなく、

 

築山殿と信康に悲劇が訪れます。

 

それは徳川家の重臣である酒井忠次

 

信長のもとを訪れた際に、徳姫の書状を直接、

 

信長に手渡した事から始まりました。

 

その書状(十二ヶ条の訴状)には、

 

「築山殿は贅沢三昧な暮らしをし、
唐人医師と密通したり武田家と内通している」

 

「信康は盆踊りの下手な領民を面白半分に矢で射たり、
お喋りな侍女の口を裂いて殺した」

 

などの悪口や、この二人が武田と通じて

 

織田家と徳川家を滅ぼそうとしている、

 

と書かれていたのでした!?

 

徳姫の書状を読んだ信長は忠次に、

 

これは本当のことか?」と確認をすると忠次は、

 

はい」との返答したため、信長は、

 

信康を殺せ!家康にそう伝えよ」と言ったそうです。

 

織田信長の命令を受けたとあらば、どうしようもなく、

 

家康は泣く泣く、妻・築山殿の殺害と、

 

息子・信康の切腹を決意します。

 

 

未来永劫徳川を呪ってやる!と叫んだ築山殿の最期

 

徳川家康 正室 築山殿 瀬名 岡崎城 岡本時仲 石川義房

 

信康が自害させられることを知った築山殿は、

 

信康の助命嘆願のために岡崎から家康のいる

 

浜松城に向かいます。この時、家康の家臣の

 

野中重政が命を受けて岡崎城へ迎えに行き、

 

重政に連れられ築山殿は、彼と共に浜名湖を渡り、

 

小藪という村に差し掛かった時、浜松城からやって来た

 

石川義房岡本時仲の二人に迎えられます。

 

築山殿は輿から降りると、その背後から

 

野中重政が突然背中を斬りつけたのでした。

 

そして遺体は、その場の藪に埋められ、

 

そのは浜松城からやって来た二人によって、

 

浜松城に送られました。

 

自分を守ってくれるはずの家臣たちにいきなり切りつけられ築山殿。

 

この時、彼女は大声で泣きわめき、

 

「未来永劫徳川を呪ってやる!」

 

という言葉を吐いたとも言われています。

 

一方で真逆の、「静かに合掌しながら死んだ」という説もありますが、

 

築山殿が家康から受けた数々の仕打ちを思うと、

 

未来永劫徳川を呪ってやる!」の方に

 

軍配があがるように思えますよね。^^;

 

その後この事件は、あまりの悲惨さから地元に

 

色々な噂が飛び交ったそうです。

 

「築山殿の首を刎ねた後、その血がついた太刀を
洗った太刀洗の池では、しばらくして池の水が枯れてしまった」

 

「築山殿の殺害に立ちあった武士の手足が溶けてなくなって死んだ。」

 

「立ち会った武士の孫娘が築山殿の名前を叫びながら死んだ」

 

等々、当時の築山殿殺害事件の大きさを物語っているようです。

 

 

織田信長は徳川家康によって悪者に仕立て上げられた?それともグル?

 

徳川家康 正室 築山殿 瀬名 岡崎城 岡本時仲 石川義房

 

こうして信長の命により自身の妻子をに追いやった家康ですが、

 

最近になって、信康の自害は信長の意思ではなく、

 

徳川家の事情によるものでは?という説が出てきています。

 

その事情とは・・・家康と信康は日頃から仲が悪く

 

家臣たちも浜松城と岡崎城で対立していた、というものです。

 

確かに、築山殿のへの仕打ちをずっと見て来た信康にとって、

 

父を素直に尊敬する気持ちになかったとしても不思議ではありません。

 

また家康が岡崎城を出た際に置き去りにされた家臣たちも、

 

家康に少なからず不満があった可能性は十分あります。

 

そこで家康は

 

「信康が勢力をつける前に死に追いやってしまおう。
ついでに桶狭間の戦い以後、今川一門で扱いの面倒な
妻も一緒に排除していまおう。。。」

 

と考えたのだとか?・・・

 

実際に信長の命を受けた家康は、築山殿や信康に

 

事実を問いただす」という事を、ほとんどしないままに

 

に至らしめているそうです。となると、織田信長は

 

そのために悪者に仕立て上げられた?とも考えられますが、

 

築山殿と信康の首が織田信長に送られた事実はあるので、

 

家康が織田信長の命に従ったことは確かと思われます。

 

となると、信長と家康はグル!?ということも無きにしもあらずでしょうか。

 

 

実は悪女ではなかった?!創作された築山殿の悪女説とは?!

 

徳川家康 正室 築山殿 瀬名 岡崎城 岡本時仲 石川義房

 

更に築山殿悪女説創作であったのでは?

 

と言われています。仮に築山殿や信康が

 

武田に通じる悪事を企んでいたにせよ、

 

妻子を殺害した事は天下人、家康にとっては

 

大きな汚点であるに違いありません。

 

そこで、家康の行為を正当化するために事実以上に、

 

築山殿が悪女であったこと、信康がダメな殿様であったことを

 

徳川家が創作したのではないか?」という説です。

 

実際に、築山殿の死後、侍女が一人、

 

入水自殺をはかっています。また、築山殿を斬った

 

野中重政もその後、城を出て故郷に帰ってしまいます。

 

築山殿が本当に悪女であったら、

 

侍女や家臣がこのような行為を起こすでしょうか?

 

その後にもまだまだ、続きがあり、実は、

 

築山殿殺害の後、岡崎や浜松では災い怪奇現象が起こったのです!!

 

例えば、岡崎では疫病が流行ったり火事がおこったり、

 

二人を死に追いやった家康にも枕元に夜な夜な
小さな蛇の姿となった築山殿の霊が訪れ呪いをささやき続けた

 

という言い伝えも。そのため家康は、築山殿と信康は罪人でしたが、

 

密かに家臣の石川数正に築山殿と信康の鎮を命じたそうです。

 

これってやっぱり、黒幕である家康の後ろめたさあらわれ?!

 

ん〜〜真相は闇の中ですね。。。^^;

 

家康の謎の死因とは!?」も合わせてどうぞ!

 

引き続き、「歴史に隠された黒い噂と黒歴史」をお楽しみください!!

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