【伊藤博文】英雄、色を好む!女好きにもほどがある?!

伊藤博文 女好き 好色 恋の伊藤博文 桃吉 お仲さん 下田歌子 極子 すみ子 梅子 不倫

 

伊藤博文」は1841年(天保12年)

 

山口県で農民の子として生まれました。

 

実家は貧しくて破産してしまい伊藤家の養子となります。

 

貧しい農民の子から足軽の子になり、ついには

 

明治新政府初代内閣総理大臣にまで上り詰めます。

 

まれに見る大出世の政治家であり

 

現代日本の基礎を築いた偉人の一人でもあります。

 

この伊藤博文のあだ名は知っていますか?

 

それは「ほうき」です。

 

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掃いて捨てるほど回りに女がいる」という意味だそうですが。。。^^;

 

明治から現代までの政治家の中でも

 

一番の女好きは文句無く伊藤博文でしょう。

 

豪勢な邸宅を持ちたいとも思わないし財産を気づこうとも思わない、

 

伊藤博文はただひたすら女性が好きで生涯女性と遊んでいたい。

 

そう思う、日本一の女好きプレイボーイでした。

 

明治政府でもお金に執着が強い人物といえば

 

大隈重信山形有朋などが上げられますが、

 

女への執着では右に出るものはいませんでした。

 

当時の新聞や雑誌の派手な女性関係を報道し、

 

1902年には「恋の伊藤博文」という

 

本も出版されてしまうくらいなんですが。。。

 

それではどれほどの女好きなのか?を見て行きましょう!!

 

  • 伊藤博文には二人の妻がいた?!
  • 絶倫?! 博文の女好きエピソード集!!
  • 良妻賢母? 梅子夫人の素性とは?!

 

 

伊藤博文には二人の妻がいた?!

 

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伊藤博文」は松下村塾の塾生の時代に

 

最初の結婚をしています。

 

相手は久坂玄瑞、高杉晋作らとともに

 

松門四天王」と呼ばれた入江九一の妹のすみ子でした。

 

その後、高杉晋作の挙兵に参加していた頃に

 

長州藩内の内紛でを狙われた博文は

 

亀山八幡宮という神社に逃げ込み、

 

そこで「梅子」という女性に出会いかくまわれます。

 

梅子はたいそうな美貌だったそうで、

 

その後たびたび二人は会うようになりますが

 

正妻のすみ子がいたのでこれは間違いなく不倫です。

 

長州と薩摩の間で薩長同盟

 

結ばれる頃になると博文も忙しくなります。

 

長崎に武器調達に出向いている間に

 

梅子の父親は彼女を下関の置屋に身売りをさせてしまいます。

 

貧乏のあまり「娘を売った」ということですね。

 

実はそのとき梅子はすでに博文の子供を妊娠していました。

 

そのことを知った博文は梅子を置屋から身請けしようとしますが、

 

置屋「いろは楼」の主人は

 

正妻と離婚するなら認めるとの条件を突きつけます。

 

至極もっともな条件ですが。。。^^;

 

もともと正妻の「すみ子とはそれほど折り合いもよくなかったようで、

 

すみ子と離婚して梅子を身請けして2度目の結婚にいたります・

 

ここまでは不倫でありながらも

 

理解できる男女の物語といえるでしょう。

 

しかし、梅子と結婚した後も博文の女好きは

 

止まるどころか勢いが増すばかりだったのです!

 

 

絶倫?! 博文の女好きエピソード集!!

 

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どれだけ伊藤博文が女好きだったのか?

 

いくつかのエピソードをご紹介しましょう。

 

1.イギリス留学中女浸り

 

幕末のころ、いまだすみ子と結婚する以前の話です。

 

いわゆる長州ファイブとして英国に留学した博文は

 

5年という期間の間に先進国イギリスの知識を

 

できる限り吸収しなければなりません。

 

博文の使命はイギリスの人心と政情に関してのリサーチで、

 

そのために他の留学生よりも多くの資金を与えられていました。

 

こともあろうにその資金を使い込んで

 

博文は色町(風俗)通いに熱心になってしまいます。

 

他の留学生からは問題視され帰国させろという声が出てきました。

 

井上馨のもてなしで納まったといわれていますが、

 

他の留学生よりも随分早く、たった1年

 

英国から帰国した本当の理由はこれかもしれません。

 

2.料理屋の娘との密通

 

明治新政府となり兵庫県令に赴任していたころの話です。

 

博文は福原の遊郭兼宿屋(※ソープランドにラブホをプラスしたようなもの)

 

に通いつめるようになりました。

 

そこの主人の千崎弥五平の娘である「お仲さん」と恋仲になってしまいます。

 

このことは梅子婦人に気づかれてしばらくは

 

福原通いを控えていましたが、結局は関係は続いてしまいます。

 

一計を案じた梅子婦人は井上馨に相談して、

 

お仲さんと兵庫県の巡査と結婚をさせてしまったそうです。

 

なんとも大胆な解決法ですね。

 

 

3.舞踏会で上流婦人と関係 

 

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博文が総理大臣を務めていた頃の話です。

 

総理官邸で舞踏会が開かれ、ある女性と出会います。

 

当時は鹿鳴館に始まって結構ひんぱんに舞踏会が

 

開かれていましたのでこれ自体は珍しいことではありません。

 

しかし、相手が凄いんです!!

 

こともあろうに岩倉具視侯爵の三女

 

鹿鳴館の華」と呼ばれていた戸田伯爵夫人の

 

極子」(きわこ)さんでした。

 

これは完全にダブル不倫です。

 

しかも自らの上司の娘とです!

 

当時のマスコミはこのスキャンダルを面白おかしく

 

報道したのは言うまでもありません。

 

4.歌人で才女 下田歌子

 

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明治きっての才女「下田歌子」もその一人です。

 

下田歌子といえば「実践女子学園」の創始者であり、

 

順心女学校(現・広尾学園)の初代校長でもあり、

 

マンガ「はいからさんが通る」などでも知られるようになった

 

当時の女性の「袴にブーツ姿」を考案した女性でもあります。

 

この学校の設立や運営などで伊藤博文に

 

相談をしているうちに不倫関係に落ちたといわれていますが、

 

相談しているだけなのに何でそういう風になってしまうのですかね?!(笑)

 

5.芸者と成田山詣で

 

総理大臣を務めていた伊藤博文

 

名古屋で芸者の「桃吉」さんと出会います。

 

この女性にほれ込んだ博文は議会開催中にも関わらず

 

ひんぱんに逢瀬を楽しみ、一緒に成田山詣でにも出かけています。

 

天下の総理大臣が芸者と成田山とは前代未聞のことでした。

 

その他にも、日清戦争で戦火の激しい折にも

 

広島の大本営に詰めていた伊藤博文はそこでも芸者通い、

 

戦後の下関講和会議の座で清国代表が狙撃されるという

 

大事件が起きましたがそのときの報せを聞いたときも

 

横には芸者がいたと言われています。

 

この女好きは明治天皇の耳にも届いたようで直々にいさめられています。

 

そのとき博文はこう天皇陛下に対しこう申し上げたそうです。

 

「世間の他のものはこそこそとやっているが、
私は堂々とやっているだけです。」

 

明治天皇の前でも「女遊びはやめない」と宣言したようなもので、

 

明治天皇もさぞ呆れかえった事でしょうね^^;

 

もはや病気を通り越して、達人の領域かも。。。(笑)

 

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さて、総理大臣が居る総理官邸はご存知かと思いますが、

 

これも初代総理大臣伊藤博文の時に作られました。

 

実は、伊藤博文は首相でありながら女遊びが過ぎて

 

借金で家を失いそうになってしまいます。

 

いくらなんでも時の首相が家なしでは体裁が悪すぎるということで、

 

急遽政府が造営したのがその始まりなんですね。

 

公費で自宅を作るなんて今では考えられないですが、

 

女好きエピソードも、さすが、格が違います!

 

 

良妻賢母? 梅子夫人の素性とは?!

 

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この生来の女好きの豪傑伊藤博文

 

ご夫人である梅子さんはどうしていたのでしょうか?

 

伊藤博文と再婚して以来、最後まで添い遂げます。

 

どうやら梅子婦人は博文の女好きも度重なる不倫

 

すべて許して見守っていたようです。

 

体調を崩して高熱を出し寝込んでいる際も

 

両脇に芸者を置いて手を握っていたという伊藤博文ですが、

 

対外的には女性関係に関して一切口にはださず博文を支え続けました。

 

自宅まで芸者を連れ込むことはしばしばあったようですが、

 

梅子は帰り際の芸者にはお土産を必ずわたしてねぎらいました。

 

また、朝まで自宅ですごした芸者には、

 

翌朝の身支度やお化粧の世話までしてあげたそうです。

 

不倫相手といわれた下田歌子からも和歌を習い、

 

もともと字が書けなかったにも関わらず

 

津田梅子(津田塾大学創始者、たまたま同名です)からは

 

英語をまなび英文筆記ができるまでになったという逸話もあります。

 

そして、伊藤梅子は1884年(明治17年)に、

 

宮中制服改めにあたりその調度(コーディネイト)をたくされるまでになりました。

 

伊藤博文がハルビンで暗殺された際に梅子は和歌を詠んでいます。

 

「国のため 光をそえてゆきましし 君とし思へど かなしかりけり」

 

梅子婦人は博文の全てを愛していたのでしょう。

 

 

伊藤梅子木戸孝允の妻松子と並んで

 

良妻賢母の鏡」といわれています。

 

もっとも木戸孝允は清廉潔白な男で女性遊びの癖はなかったようですが。

 

伊藤博文の活躍は、梅子夫人あればこそ。

 

伊藤博文は非業の最期を遂げましたが、

 

男冥利に尽きる人生だったのではないでしょうか。

 

引き続き、「歴史に隠された黒い噂と黒歴史」をお楽しみください!!

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