【大久保利通】は名言のデパート?! その言動から実態を探る!!

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維新の三傑」といえば西郷隆盛、木戸孝允、

 

そして「大久保利通」の3人ですよね。

 

西郷隆盛は旧士族の不平不満を

 

一身に受け止めて西南戦争で自決

 

木戸孝允は最後まで新政府の役職に

 

尽力し力尽きて病死

 

そして大久保利通は・・・

 

不平士族の手によって暗殺されています。

 

世に言う「紀尾井坂の変」です。

 

暗殺された時点では、西郷隆盛を死に追いやった

 

張本人として旧士族の恨みを受け、

 

新政府の中では独断専横の強引さから孤立を深めていました。

 

確かに融通が利かない性格で

 

かなりの高圧的威厳を持っていたようです。

 

あの「人切り半次郎」と呼ばれた桐野利秋ですら

 

面と向かって意見することができなかったほどでした。

 

ちなみに、大久保利通の身長は182cm、

 

当時の成人男性の平均身長が157cmほどでしたから、

 

現在で言うと普通の男性がアントニオ猪木と

 

向かい合うくらいの迫力があったといえるでしょう。

 

坂本龍馬の身長は169cm〜179cmまで諸説ありますが、

 

いずれにしても坂本龍馬よりも体は一回り大きかったんですね。

 

繊細にして気難しい大男、大久保利通とはどんな人物で

 

何をなそうとして暗殺されたのか?

 

今回は、その言動から探ってみたいと思います!!

 

  • 大久保利通の“座右の銘“とは?
  • 大久保利通“名言集”!!
  • 大久保利通はいったいをした人??

 

 

大久保利通の“座右の銘“とは?

 

為政清明」(いせいせいめい)

 

大儀を成すには清廉潔白でなければならない。

 

実際に暗殺された時の大久保利通には蓄財はなく、

 

一億円近い借金のみが残りました。

 

この借金も政府財政の一部を肩代わりしたものでした。

 

大久保利通の人柄が実に良く現れていますよね。

 

 

大久保利通“名言集”!!

 

「二人で刺し違えて死のう」

 

これは明治維新のはるか以前、

 

西郷とともに薩摩藩士だった頃の言葉です。

 

島津斉彬が死に、次の藩主島津久光と西郷隆盛は

 

折り合いが付かず、島流しになっていました。

 

大久保は久光に取り入り、説得から西郷を呼び戻します。

 

その時、藩主久光は朝廷警護のため

 

薩摩軍を率いての上洛をしようとしていました。

 

しかし西郷は、「久光公では斉彬公のように

 

世情を動かすことはできない」と反対し、

 

久光の激高を買ってしまいます。

 

この時は大久保の取り成しで久光の怒りは収まったのですが、

 

今度は西郷が藩主の許しを得ずに軍隊を率いて京に進軍します。

 

大久保利通は西郷隆盛をいさめて

 

西郷という男は天下大事に欠かせない。
しかし、久光公の怒りは決して解けないだろう。
これで天下の大事は成すことはできなくなった。
二人で刺し違えて死のう。

 

と、迫りました。そして西郷は、

 

君が死んだら誰が天下の大事を成す。
大久保利通以外に大志を貫ける人間はいない。

 

と逆に大久保を諭し、薩摩藩にて西郷は罰を受け、

 

時節の到来を待つことになりました。

 

「非義の勅命は勅命にあらず」

 

幕府が弱腰の朝廷に付け込んで

 

第二次長州征伐の勅命を取り付けようとしていた時の言葉です。

 

高潔な精神を持った大久保利通は、

 

「朝廷(天皇)でさえも国家・国民のためには
健全でなければならない。」

 

という強い意志を持っていました。

 

勅命とは万民が「ごもっとも」というようなものであればこそ、

 

天皇の意志と言えるものであり、

 

道理をわきまえねばならないという考えです。

 

これは、そもそもが吉田松陰の教えであり、

 

後年、新渡戸稲造の「武士道」でも述べられています。

 

しかしその後、大政奉還を申し出た幕府を朝敵に仕立て上げるために

 

大久保は天皇の勅許を得ないまま「錦の御旗」を掲げて進軍をします。

 

高潔ではあるが大儀をなすためには手段を選ばず。

 

という事でしょうか思い切った作戦ですよね。^^;

 

後年に続く大久保利通の独断専行の始まりかもしれません。

 

「今日のままにして瓦解せんよりは、むしろ大英断に出て、瓦解いたしたらんにしかず」

 

明治維新を成し遂げて新政府がスタートしましたが、

 

日本の現状はいまだ諸国の藩にはお殿様がいて

 

徳川幕府は倒れましたが江戸時代の幕藩体制が

 

いびつなまま継続している状態でした。

 

日本を西欧列強と対抗できる強い国家とするためには

 

このいびつな幕藩体制を打破して新政府が強力に舵を取る

 

中央集権国家への刷新が必須でした。

 

そのための大断行が「廃藩置県」です。

 

藩を廃止して県を置き、政府が任命した知事を通じて

 

中央集権を実現させるという、

 

300年続いた国家体制の大転換です。

 

当然、藩主(お殿様)は職を失い、同時に断行された

 

「秩禄処分」で藩から俸禄をいただいていた士族は

 

身分と収入を同時に失います。

 

西郷や木戸とも何度となく意見を交わしましたが

 

三者三様の思惑からまとまりが付きません。

 

その時に大久保の口をついてでた言葉です。

 

「座して死をまつよりも、打って出て血路を開く。」

 

政治上の議論ですが、精神としては

 

士族の廃止を士族の心得を持って成す。

 

ということでしょうか。

 

大久保の迫力に押されて西郷、木戸も同意し

 

見事に「廃藩置県」は成されました。

 

「堅忍不抜」(けんにんふばつ)

 

この言葉は大久保利通の座右の銘のように

 

語られることが多いですが、朝日新聞主筆のジャーナリスト、

 

池辺三山が大久保利通を評した言葉です。

 

一度決めたことは執着を持って、

 

どんな困難があっても成し遂げるという意味です。

 

強硬な意志で新政府の政策を推し進めた

 

大久保利通にこの言葉を送ったのでしょう。

 

「おはんの死と共に、新しか日本がうまれる。強か日本が」

 

大久保利通は西南戦争での西郷の自決を知った時

 

号泣したといいますが、その時の言葉です。

 

征韓論によって決裂した西郷と大久保ですが、

 

薩摩同郷の幼馴染で若い頃から志を同じくして

 

国家の維新に尽力してきました。

 

考えの違いから分かれた道を選びましたが、

 

お互いを認め合っていたことに間違いはありません。

 

西郷が下野する時には「明治政府の後を頼む」と

 

大久保に言い残し、大久保は

 

「薩摩は西郷がいるから心配はない」と伊藤博文に語っています。

 

西郷の死を知ったとき、その自決の意味も大久保は理解していました。

 

新しい国家のために旧士族の不平不満を

 

すべて受け止めて死んで行きました。

 

西南戦争終結の後、旧士族中心の体制から

 

民主主義へと一気に加速します。

 

西郷隆盛はそのための礎となりました。

 

「自分ほど西郷隆盛を知っている者はいない」

 

暗殺される直前に大久保はこう語っています。

 

西南戦争で自決した西郷隆盛はひたすら美化され、大久保は裏切り者扱いとなっていました。
しかし、大久保は西郷の真意を理解していました。

 

西南戦争もまた新政府のためだったのです。

 

周囲から何を言われようが、西郷隆盛のことは大久保利通が一番知っている。

 

この言葉を聞くと、西郷と大久保は幼い頃からの友情と志はお互いの状況がどんなに変化しても変わらなものだったのだろうと推察できます。

 

男の友情は不変ですね。

 

 

大久保利通はいったい何をした人??

 

明治政府の一大転換期は「岩倉使節団」にあります。
いまだ政情不安定な中、3年もの長期にわたって政府の主軸となる要人が国を留守にします。
欧米列強に対して新国家を認めさせ、先進的な文明を取り入れるためには必要でしたが、残された西郷などの政府の留守を預かる者たちとの間では3年の間に亀裂が生じていました。

 

大久保は帰国後、留守居政府の主要な人物を排斥し独断的な政策を推進します。
しかし、大久保は本来は独断的な手法よりも民主的な手法を望んでいたこともわかります。

 

それは、使節団で最初に訪れたアメリカの政治制度に感銘し「アメリカのデモクラシー」という論文を執筆しているからです。
本来は民主的な政策をとりたかった大久保ですが、「国民はいまだ未熟」との考えから君主(天皇)からの専制の形で専横的に政策を推し進めたのです。

 

 

この時点で大久保利通には大きな誤りがあったのかもしれません。

 

国民は未熟であるとして信じることができず、その独断的な政治姿勢がひいては暗殺という悲劇につながったのでしょう。

 

同じ大志を抱きながら、
徹底的に人を信じた西郷隆盛と人を信じなかった大久保利通。
その違いが二人が袂をわかった本当の理由ではないでしょうか。

 

しかし、現代の日本は大久保利通の成した数多くの功績がなければこれほど繁栄はしていなかったのも事実です。

 

 

引き続き、「歴史に隠された黒い噂と黒歴史」をお楽しみください!!

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