【上杉謙信】のミステリアスな死因とは?!暗殺説から婦人病説まで?!

上杉謙信 死因 暗殺 婦人病 脳溢血説


上杉謙信」、と言えば越後(新潟)の戦国武将の一人ですが、

一般的なイメージは

「敵に塩を送る」

という有名な”ことわざ”ではないでしょうか。

これは上杉謙信が敵将武田信玄に塩を送った逸話からきています。

このことわざの通り、謙信は、戦乱の世にあっても

侵略のための戦いはせず、一方で他国から救援を要請されると

出兵する「」を重んじる人であったそうです。

更に謙信は戦いが強かったことでも有名です。

一説には戦国最強の武将とも言われています。

そんな謙信でしたが、亡くなる時は突然倒れたということで、

普通は脳溢血というイメージが沸きますが、

謙信の場合は死因をめぐって諸説があり、

それがとてもミステリアスなのです。

そもそも上杉謙信という武将は、

実はとても謎の多い人物だったのです!

それでは、謙信のミステリアスな死因にまつわる

諸説について見て行きましょう!!

  • 上杉謙信のミステリアスな生き様とは?!
  • 暗殺説から婦人病説まで!謙信の死因の諸説とは?!
  • 突然ので大混乱!!上杉謙信亡きあとの上杉家の行方とは?!


上杉謙信のミステリアスな生き様とは?!


上杉謙信 死因 暗殺 婦人病 脳溢血説


それでは、「上杉謙信」の死因について探る前に、

謙信がどんな武将であったのかを見て行きましょう。

謙信は、越後国(現在の新潟県)の戦国武将です。

越後国の守護代だった長尾家の4男として生まれ、

兄の養子となって長尾家の家督を継ぎましたが、

やがて主君だった上杉憲政から山内上杉氏の家督を譲られ、

上杉政虎」と改名し「上杉輝虎」と名乗りました。

実は「謙信」という名前はさらに後に称した法号だそうです。

上杉謙信はその生涯で70回も戦ったと言われており、

その中で敗北したのは1,2回だけと言われています。

戦国武将たちは彼のことを

越後の虎
軍神

などと呼び、おそれると同時に称えました。

特に有名な戦は、武田信玄との「川中島の戦い」です。

この戦は5回も合戦があり最終的に両者引き分けましたが、

謙信にとって武田信玄は終生のライバルのような存在となりました。

それ故に単なる敵ではない存在であったのでしょう、

信玄が今川氏と北条氏にの供給を止められ困っていた時に、

謙信は塩の供給を止めずに信玄を助けた話は有名です。

この話は後に「敵に塩を送る」ということわざとなって

後世に語り継がれていますが、戦の達人でありながら

」を重んじた上杉謙信の懐の深さを物語る逸話です。

また、上杉謙信は生涯で1度も結婚しなかった人物でした。

そのため「上杉謙信は実は女性だったのでは?!

という説もあるのですが、一般的に知られている理由は、

謙信が仏様を守る四天王の一人「毘沙門天」を信仰していて、

自身のことを「我は毘沙門天の化身なり」と

神格化するほど熱心だったため、

生涯不犯を誓って独身を貫いたのではないか?

とも言われています。

と、ここまでは普通の戦国武将の生涯ですが、

実は謙信という人物には先の「女性説」がまことしやかに囁かれ、

死因についてもこの女性説も絡んで諸説があるのです。


暗殺説から婦人病説まで!謙信の死因の諸説とは?!


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謙信は49歳の時に厠(トイレ)で倒れ,

数日後に亡くなってしまいました。

その死因については色々な説が言われています。

主なところは次の3つの説。1つ1つ検証してみましょう。

  • 脳溢血説
  • 婦人病説
  • 暗殺・砒素による毒殺説

脳溢血説


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謙信の死因にまつわる説の中で

最も有力なのは「脳溢血説」です。

謙信は大のお酒好きとしても知られています。

謙信が愛用した「馬上盃」という馬に乗ったまま

酒を飲むための大きな盃が

山形県の上杉神社というところに保存されているそうです。

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馬に乗っているときまでお酒を飲んでいたいほど

お酒が好きだったのですが、今で言う飲酒運転ですよね^^;

更にその肴が梅干であったそう。

日常的な大量の飲酒塩分の取り過ぎ過ぎとなれば、

脳溢血もいたしかたない感がありますね。

更に、謙信が倒れたのは3月9日

まだ寒い時期の北陸です。

特にトイレは現代でも寒暖差やいきみで

脳溢血を起こしやすい場所と言われていますから、

これだけの条件が揃えば、謙信の死因は

脳溢血説」が最も可能性が高いと思われますね。


婦人病説


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謙信にまつわるミステリアスな説としてよく出てくるのが、

上杉謙信女性」です。

トンデモ系の説に思われそうですが、

意外にも信憑性のありそうな証拠がいくつかあるのです。

その1つが謙信の死因が「婦人病」であったという記録。

江戸時代初期の大名松平忠明が編纂した

当代記』によりますと、

「上杉謙信の死因は大虫だった」

と書かれているそうです。

この「大虫」というのは「婦人病」を指す言葉で、

今でいえば更年期障害。当時は更年期障害による

生理不順の重症化で宮内膜症を併発して

亡くなる女性が多かったそうです。

これを裏付けるかのように、謙信には腹痛の持病があり、

毎月数日間は戦をせず城に籠っていたそう。

これは生理だったのではないか、とも言われています。

その他にも、スペインの宣教師が本国の国王に宛てた報告書に

「上杉景勝は、その叔母が佐渡金山を開発して
得た資金を大量に保有している」

とい記述があるそうですが、

上杉景勝は謙信の姉の息子なので、

もし謙信が女性であれば景勝の叔母にあたります。

更に佐渡金山を開発したので謙信です。

つまり宣教師の報告書にある「上杉景勝の叔母」にあたる人物は

謙信ということになる?!・・・等々、

上杉謙信女性説」はまんざらあり得なくもないのです。

何より、謙信の死因が婦人病という

歴史的な記録がある訳ですから、

全く無視することはできないですよね。


暗殺説


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謙信の死因については、

刺客に襲われた」という説も根強くあるようです。

では、その刺客を送り込んだのは誰か、

というと「織田信長」。信長は謙信が亡くなる前年に、

家臣の柴田勝家が手取川の戦で謙信に大敗をしており、

脅威に感じていたようです。

謙信は信長との戦のあとの冬に一旦、春日山城に戻りますが、

春になれば大軍を率いて上洛するつもりであったとも言われており、

信長の頭の中には謙信との直接対決は当然、

意識されていたことでしょう。

では、どのように刺客は謙信を暗殺したのか・・・というと、

謙信がトイレでしゃがんだ時に、

「トイレの下に潜んでいた刺客がお尻に槍を突き刺した?!」

なんて説まで囁かれています。

これはあまりに面白おかしくされすぎた説ですが、

実は謙信、この時期に自らの死を予感するかのように

辞世の句を呼んでいます。

四十九年一睡の夢 一期の栄華一杯の酒

この句は

「49年の自分の生涯は夢のように短かった
栄華も一杯の酒ほどの価値しかない」

という意味で、暗殺説の真偽はさておき、

もしかしたら謙信は信長に命を狙われることを

意識していたのかもしれません。


突然の死で大混乱!!上杉謙信亡きあとの上杉家の行方とは?!


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このように謙信のはあまりに突然であり、

それもという密室で起こったために、

死因をめぐって様々な説がささやかれた訳ですが、

この死によって一番困ったのは上杉家の人たちです。

なにしろ謙信は49歳という高齢にも関わらず

跡継ぎの指名をしていなかったのです。

これにより、上杉家は二人の養子・・・

謙信の姉の子である上杉景勝と、

北条氏からの養子である上杉景虎との間で

内乱「御館の乱」が起こってしまいます。

この内乱では越後が真っ二つに割れるほどの激しい争いになり、

1年をかけて景勝側がかろうじて勝ちました。

上杉家はこの内乱により弱体化し、

もはや織田信長に敵対するような力はなくなってしまいます。

それでも景勝はその後、秀吉の信頼を勝ち取り、

領地も広げ五大老の一人にもなります。

秀吉の死後、関ヶ原の戦いで西軍についたため、

徳川家に領地を減らされますが、その後は徳川家に従い、

苦しい財政の中いくつもの逆境を乗り切りって

現代にまで続いているそうです。

以上が上杉謙信の死因にまつわる諸説と、

その死による上杉家の混乱をご紹介しました。

上杉謙信が一般的な男性ということが疑いもなく、

更に子孫も残していれば、死因にまつわる諸説も

こんなにバラエティに富まなかったでしょうし、

跡継ぎ問題で上杉家が疲弊することもなかったでしょう。

改めて上杉謙信とはミステリアスな戦国武将だったことを

お分かりいただけたのではないでしょうか。

引き続き、「歴史に隠された黒い噂と黒歴史」をお楽しみください!!

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