【大久保利通】 無念の惨殺!壮絶な最後とは?!

大久保利通 紀尾井坂の変

 

東京はJR四ッ谷駅のすぐ近く、

 

紀尾井坂」という坂があります。

 

  • 紀伊徳川家の「
  • 尾張徳川家の「
  • 井伊家の「

 

の三文字を合わせて、紀尾井坂という地名になりました。

 

親藩の大名と最有力の譜代大名の屋敷が連なるこの坂は、

 

江戸城防衛の面からも重要な場所だったのです。

 

そして1877年(明治11年)5月14日、

 

この地で大久保利通が暗殺されました。

 

世に言う「紀尾井坂の変」です。

 

なぜ、大久保利通は暗殺されなければならなかったのか?

 

倒幕そして明治維新まで、

 

この大きな歴史の流れを見て行きましょう!

 

  • 薩摩の知恵者! 大久保利通
  • まさに壮絶! 暗殺現場とは!?
  • 大久保が襲われた意外な理由とは?!
  • 大久保暗殺に正義はあったのか?
  • 大久保が西郷隆盛を本当に見殺しにした?!
  • 本当の大久保利通とは・・・

 

 

薩摩の知恵者! 大久保利通

 

大久保利通 紀尾井坂の変

 

大久保利通は1830年薩摩藩に生まれます。

 

幼名は正袈裟しょうけさ)といい、

 

元服して正助しょうすけ)と名乗りますが、

 

藩主島津久光から後に一蔵の名を授けられます。

 

利通と名乗ったのはそのずっとあとのことですが、

 

ここでは一番知られている利通としてお話します。

 

近くには3歳年上の西郷吉之助西郷隆盛)が住んでいて

 

幼い頃からの親友で、この二人が薩摩藩をうごかし、

 

ひいては日本全国を動かして明治維新を実現させます。

 

その人物像は正反対

 

西郷がなら、大久保は

 

西郷が豪放なら、大久保は繊細

 

一般的には西郷隆盛は恰幅が良くて、

 

誰からも一目置かれる迫力がある人物として知られていますが、

 

この、大久保利通もなかなか迫力のある人物であったようです。

 

幕末では京の都でも人斬り半次郎と恐れられた桐野利秋ですら、

 

大久保の威厳を恐れて、

 

まともに意見は出来なかったといわれています。

 

大久保利通と西郷隆盛、

 

この二人は倒幕という目的においては、

 

幼馴染の親友ならではのぴったりと息の合った呼吸を見せていました。

 

そう、徳川幕府を倒すまでは・・・

 

しかし、倒幕がなり明治新政府が誕生すると、

 

二人の間には徐々に亀裂が生じてきます。

 

この二人の間の亀裂こそが、

 

大久保利通暗殺の原因ともいえるのです。

 

 

まさに壮絶! 暗殺現場とは!?

 

大久保利通 紀尾井坂の変

 

大久保利通が殺されたのは1878年5月14日。

 

現場の紀尾井坂は現在の参議院清水谷議員宿舎の前になります。

 

大久保は自宅を出て、明治天皇謁見をするため

 

仮皇居に向かう途中でした。

 

自宅は現在の首相官邸のあたりになります。

 

仮皇居である赤坂御所に向かっていた

 

馬車の前に二人の若者が立ちふさがります。

 

従者が馬車を降りて道を開けるよう話した瞬間に、

 

若者は隠しもったで馬の前足を切りつけます。

 

これを合図に数人の刺客が馬車に襲いかかります。

 

大久保は馬車の扉を開けて、「無礼者!」と叫んだそうです。

 

刺客はかまわず大久保を襲い、

 

眉間に斬りつけ、さらに、腰のあたりに突きかかりました。

 

これにより動けなくなった大久保は馬車から引きずり出され、

 

幾度となく斬りつけられます。

 

大久保の体に切りつけられた刀傷

 

なんと!実に16ヶ所におよびます。

 

その半数以上が頭部に集中していたと言われ、襲い掛かった刺客の大久保への恨みの深さが感じられます。

 

その凄惨な現場を前島密(まえじまひそか)は、

 

「肉が飛び散り、骨が砕け頭蓋骨は裂けて、
脳みそが震えているのが見て取れた。」

 

と後に語っています。

 

この、暗殺された時の馬車は実は現存しています。

 

岡山県の五流尊龍院というお寺に奉納されています。

 

なぜ、大久保に縁もゆかりもない

 

岡山のお寺なのかは今もなお不明です。

 

もしかしたらコレクターの仕業なのでしょうかね??・・

 

 

大久保が襲われた意外な理由とは?!

 

大久保利通 紀尾井坂の変

 

大久保暗殺の刺客は6名。

 

  • 島田一郎
  • 長連豪
  • 杉本乙菊
  • 脇田巧一
  • 杉村文一
  • 浅井寿篤

 

主犯は現在の石川県出身の島田一郎

 

6名は襲撃のあと警察に自首しています。

 

自首した際に所持していた

 

斬奸状(ざんかんじょう:暗殺する理由を書いた文書)

 

には大きく以下の5つの暗殺理由が書かれていました。

 

@国会も開設せず憲法も発布せず市民を抑圧している。
A役人の登用には情実やコネが横行し腐敗している。
B無駄な土木や建築で国家財政を無駄使いしている。
C国を思う志士を排斥しいる。
D不平等条約の改正を遂行していない。

 

どれも、政府に対する指摘としては外れてはいないのでしょうが、

 

果たしてこれが大久保利通を襲撃した本当の理由なのでしょうか?

 

本当の理由は推測するしかありませんが、

 

その手がかりは主犯の島田一郎の計画にあります。

 

実は、島田は大久保利通のほか、

 

計7人の暗殺を計画していました。

 

  • 大久保利通
  • 木戸孝允
  • 岩倉具視
  • 大隈重信
  • 伊藤博文
  • 黒田清隆
  • 川路利良

 

いかがでしょうか・・・いずれの面々も西郷隆盛と対立し、

 

西郷を下野に追いやった人物ですよね。

 

そして、7番目の人物である川路利良

 

この名前は歴史好きでも聞いた事がない、

 

という方が多いのではないでしょうか。

 

川路利良は日本初代の警視総監(当時は大警視)であり、

 

日本警察の父」と言われる人物です。

 

確かに政府の要職ですが、維新の功労者である

 

他の6人と比べると肩を並べるほどの大物ではありません。

 

では、なぜ暗殺の候補者となったのか?

 

それは、この川路利良こそが西南戦争直前に

 

鹿児島にいる西郷隆盛のもとへ暗殺団を差し向けた

 

張本人だとされているからです。

 

そうなんです!!

 

暗殺者6名は正義大義を斬奸状に書き記していますが、

 

その実は、溜まりにたまった不平、士族の恨みを晴らすこと、

 

そして、その不平士族のよりどころであった

 

西郷隆盛を死に追いやったをとること。

 

であったに違いありません。

 

特に、西郷とは薩摩藩以来の盟友でありながら

 

見殺しにする形となった大久保利通が

 

その恨みを一身に受けて襲撃されたのでしょう。

 

 

大久保暗殺に正義はあったのか?

 

大久保利通 紀尾井坂の変

 

それでも、表向きには政府の怠慢、

 

腐敗を成敗するという大義で行なわれた襲撃です。

 

本当に、この襲撃に正義・大義はあったのでしょうか?

 

大久保利通は、実は暗殺当日の朝、

 

天皇陛下に謁見に出発する前に挨拶に来た

 

福島県令山吉盛典にこう話しています。

 

「戦乱も収まってようやく平和がおとずれる。
新政府を成功させるにはには30年の歳月がかかるはずだが、
自分は20年間は尽力し、
残りの10年間は後に続くものに道をゆずりたい。」

 

これが、大久保利通の30年計画といわれている考え方です。

 

明治維新からの30年間を

 

  • 最初の10年を創業期
  • 次の10年を殖産興業期
  • 最後の10年を後継者による守成期

 

3期にわけて考えて日本国を豊かにするという計画でした。

 

最初の10年である創業期に西郷とは

 

袂を分かつことになったのですが、

 

情に深く時代に取り残された士族を

 

見捨てることが出来ない西郷と、

 

次の10年に向けて産業を興し社会制度を変革させたい

 

と考えている大久保では、その考えが相容れなかったのでしょう。

 

まさに、大久保が暗殺されたのは

 

この創業期から殖産興業期に移行する直前でした。

 

不平のたまった旧士族には大久保の遠大な計画は

 

理解できるはずがありませんでした。

 

 

大久保が西郷隆盛を本当に見殺しにした?!

 

大久保利通 紀尾井坂の変

 

大久保利通と西郷隆盛は本当に絶縁し、

 

大久保は西郷を見殺しにしたのでしょうか?

 

大久保利通と西郷隆盛は歳こそは3歳離れていますが、

 

物心ついた頃からの幼馴染であり、親友です。

 

実際に、西郷が下野する直前には政府の方針を巡って

 

二人の間には激論が交わされたそうですが、

 

鹿児島に去る際には西郷は大久保に

 

「明治政府の後を頼む。」

 

と言葉を残しています。

 

そして、暗殺された大久保利通の懐には、

 

生前に西郷隆盛から送られた手紙があったといわれています。

 

「諸外国が明治維新を間違えて
理解しないように正しく伝えて欲しい。」
「写真を撮るのはよくないことだ。」

 

という内容の2通の手紙があったと、

 

大久保暗殺を伝えた当時の新聞である

 

東京日日新聞で伝えられています。

 

1通目は西郷が一番気にしていた諸外国との関係、

 

そしてもう1通は、大の写真嫌いだった西郷が

 

友人の大久保に戯れを述べたのでしょう。

 

暗殺のその日まで西郷からの手紙を大切に懐に入れていたとすれば、

 

やはり、西郷の死を誰よりも悼んでいたのは

 

親友の大久保利通だったのでしょうね。

 

 

本当の大久保利通とは・・・

 

大久保利通 紀尾井坂の変

 

西郷隆盛は時代に取り残された士族の不満

 

西南戦争の形で一身に引き受けて自らも命を落とし、

 

大久保利通は、その恨みを一身に受けて暗殺されています。

 

しかし大久保利通もまた、日本の未来を明るく、

 

豊かなものにしたいという思いでは

 

西郷隆盛に負けないものがあったのは間違いありません。

 

大久保利通の死後、当時の金額で八千円、

 

現在の価値では一億円に近い借金が残りました。

 

新政府の事業で不足する資金を

 

私財を投じて支えていたそうです。

 

大久保利通が存命していたなら、

 

日本はまた違った発展をとげたのかもしれませんね。

 

大久保利通のお墓は、西南戦争で西郷を死なせた、

 

張本人として鹿児島に埋葬することが出来ずに

 

東京の青山墓地にあります。

 

このことを一番残念に思っているのは、

 

ほかならぬ西郷隆盛かもしれません。

 

なんとも切ない気持ちになりますよね。

 

引き続き、「歴史に隠された黒い噂と黒歴史」をお楽しみください!!

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