【西郷隆盛】の戦争!壮絶なる最後とは?!

西郷隆盛 西南戦争 田原坂 征韓論 西郷従道

 

本題に入る前にこちらをご覧ください。

 

雨は降る降る 陣羽(じんば)は濡れる
越すに越されぬ 田原坂

 

右手(めて)に血刀 左手(ゆんで)に手綱(たづな)
馬上ゆたかな 美少年

 

山に屍(しかばね) 川に血流る
肥薩(ひさつ)の天地 秋にさびし

 

草を褥(しとね)に 夢やいずこ
明けのみ空に 日の御旗(みはた)

 

泣いてくれるな かわいの駒よ
今宵しのぶは 恋でなし

 

どうせ死ぬなら 桜の下よ
死なば屍(かばね)に 花が散る

 

田原坂なら むかしが恋し
男同士の 夢の跡

 

春は桜よ 秋ならもみじ
夢も田原の 草枕

 

熊本民謡「田原坂」なんですが。。。

 

西郷隆盛が新政府に対して挑んだ、

 

日本最後の内乱「西南戦争」を悼んだ歌詞が心にしみますね。

 

明治維新の立役者「西郷隆盛」はなぜ、

 

せっかく築き上げた新政府と戦うことになったのか?

 

そして、なぜ壮絶な最後を遂げなければならなかったのか?

 

日本の英雄にして逆賊、西郷隆盛の壮絶な

 

最後とその背景について考えて見て行きましょう!!

 

  • 対立激化?! 西郷隆盛と明治新政府!
  • 不平士族が鹿児島に全員集合!!
  • もう我慢できない! 私学校VS明治政府!
  • 日本最後の内戦!!西南戦争とは!?
  • まさに死闘!田原坂!!
  • 鹿児島へ帰還!!そして自決・・・
  • 西郷隆盛の真意はどこにあったのか?!
  • そして、その時大久保利通は号泣した!!

 

 

対立激化?! 西郷隆盛と明治新政府!

 

西郷隆盛 西南戦争 田原坂 征韓論 西郷従道

 

維新の三傑」という言葉があります。

 

三傑とは、言うまでもなく

 

薩摩の西郷隆盛大久保利通

 

そして長州の木戸孝允桂小五郎)の

 

3人を指した言葉です。

 

3人の中でも西郷隆盛の人気は圧倒的で、

 

それは鹿児島に行くと痛いほど感じることができます。

 

同じ三傑の一人大久保利通とは正反対、

 

むしろ大久保は敵対相手のように扱われることさえあるほどです。

 

もともと、西郷隆盛と大久保利通は年こそ3歳離れていますが、

 

幼い頃からの親友で、倒幕、明治維新という

 

大いなる目標を成し遂げた盟友でもあります。

 

その二人がどうして袂を分かつことになったのか?

 

それは、新政府に対する考え方にありました。

 

●明治新政府とは

 

1867年、大政奉還がなり孝明天皇から明治天皇

 

政権は移譲されましたが、その時明治天皇は

 

わずか14歳、現代ならば中学生です。

 

そこで、実際には維新の功労者が要人となって

 

新政府を樹立することになりました。

 

主なメンバーは以下の通り

 

  • 薩摩藩  西郷隆盛、大久保利通
  • 長州藩  木戸孝允、伊藤博文
  • 土佐藩  板垣退助、後藤象二郎
  • 肥前藩  大隈重信
  • 公 家  岩倉具視、三条実美

 

しかし、西郷隆盛とその他の政府メンバーとの間には

 

これからの日本の行く末に対しての考え方の違いがありました。

 

西郷隆盛は、士族の刀を屯田兵としてとりたて開墾し、

 

農業」を中心に国を富ませていく事を理想としていましたが、

 

他の多くのメンバーは西洋の進んだ工業や技術を

 

積極的に取り入れて、

 

産業」によって国を富ませていく事を考えていました。

 

この考え方の違いは、農業中心の南部に対して、

 

産業中心の北部とが対立した

 

アメリカの南北戦争にも似た一面がありますね。

 

 

●西郷隆盛VS新政府

 

考え方の違いから一度は下野した西郷隆盛ですが、

 

大久保利通らの要請によって再度、

 

参議として政府の要職に復帰することになります。

 

それは、新政府の面々は岩倉使節団として

 

1871年(明治3年)から2年間、

 

ヨーロッパの視察に出かけることになります。

 

人気は抜群の西郷隆盛にその留守番を要請したのです。

 

使節団が戻るまでは新たな制度や政策を

 

作ったりしないように命じていたのですが、

 

西郷はおかまいなし、様々な改革を断行していきます。

 

その主な改革として

 

  • 「地租改正」
  • 「学制の発布」
  • 「士族の職業選択の自由」
  • 「士族の帯刀義務の解除」(廃刀ではありません)
  • 「郵便制度の創設」
  • 「太陽暦の採用」

 

数え上げるときりがありません。

 

当然のことですが、ヨーロッパから戻った

 

使節団のメンバーは驚き、

 

たちまち西郷と対立構造になってしまいました。

 

それには、西郷の性格も原因の一つだったようです。

 

西郷の人柄を伊藤博文は、後にこう評しています。

 

「大まかなことを述べるだけで、
理詰めで人を説得するようなことはしない。
細かいことは言わずに最後には一喝する。
それで事は決まってしまうところがあった。」

 

そして、一番対立したのは「征韓論」です。

 

この「征韓論」とは、西郷隆盛が自ら赴いて、

 

朝鮮を説得し開国を促すというものでした。

 

しかし、新政府は西郷の朝鮮派遣に関して、

 

万一失敗した場合の両国関係への影響を恐れて封殺します。

 

なぜか、西郷は施設として朝鮮に行くことに

 

異様に固執したようで、万一派遣実現しなかった場合、

 

「死を以って国友へ謝し候までに御座候。」
(死んで謝らなければならない。)

 

と三条実美に脅迫状まがいの手紙を送っています。

 

なぜそこまで固執したかは今となってはその理由は不明です。

 

しかし、その決意もむなしく征韓論を否定された

 

西郷は新政府の要職を辞し、鹿児島に戻ってしまいました。

 

 

●明治6年の政変

 

西郷隆盛 西南戦争 田原坂 征韓論 西郷従道

 

そして、この西郷の辞職は

 

明治6年の政変」といわれる一大事につながります。

 

征韓論を唱えていた西郷隆盛を筆頭に、

 

板垣退助後藤象二郎江藤新平をはじめとした

 

要人に加えて、西郷に近い官僚や政府役人が

 

一斉に職を辞しますが、なんと、

 

その人数は600人以上にのぼったと言われています。

 

政変で職を辞した面々は、実は薩摩を中心とした

 

旧士族がほとんどで、彼らの不平不満が西郷の下野により

 

一気に爆発したものでした。

 

そして、彼らの不平不満は「西南戦争」へ続いていく

 

内乱の火種となって行きます。

 

その主な内乱を見て行きましょう。

 

・佐賀の乱

 

1874年佐賀藩の不平士族が蜂起します。

 

新政府は、この乱を”明治政府の軍”が”士族中心の軍”を

 

撃破することで権威を示せると考えて一気に平定してしまいます。

 

・秋月の乱

 

佐賀の乱と同時期に発生した、

 

秋月藩の藩士450名を中心とした反乱で、

 

こちらも新政府軍に一気に鎮圧されてしまいました。

 

・萩の乱

 

長州藩士族による反乱で、

 

こちらも300名を超す大規模な反乱でした。

 

長州藩といえば、その中心人物の木戸孝允や伊藤博文などが

 

政府の中心にいたのですが、

 

どうにも不平不満はとまらないところまで来ていたんですね。

 

このほかにも大小の反乱が各地でおきては鎮圧され、

 

不平士族の間では、

 

「もう私たちを救えるのは、
私たちの気持ちがわかる西郷隆盛しかいない。」

 

という機運が大きくなり、西郷隆盛への期待

 

大きく膨らんでいく事になります。

 

 

不平士族が鹿児島に全員集合!!

 

西郷隆盛 西南戦争 田原坂 征韓論 西郷従道

 

その頃西郷隆盛は鹿児島に戻って、

 

私費を投じて旧薩摩藩士を対象とした

 

私学校」を設立します。

 

その理念は、新政府に対抗するものではなく、

 

「明治維新の純粋な精神を受け継ぎ、
あらゆる事態に即応できる人材の育成」

 

にありました。

 

しかし、時代ははその理念とは違った方向に

 

「私学校」を向かわせてしまうことになります。

 

旧鹿児島藩士を中心に、私学校の最盛期には

 

分校が130校以上、全生徒数は

 

一万人以上に膨れ上がりました。

 

西郷は私学校に集まった不平士族に教育をし、

 

訓練をして纏め上げることに励みます。

 

この私学校の動きが、明治政府の目には

 

脅威として移るようになり、

 

いつしか警戒心を抱くようになります。

 

もう我慢できない! 私学校VS明治政府!

 

西郷隆盛 西南戦争 田原坂 征韓論 西郷従道

 

私学校に脅威を感じた明治政府は、

 

薩摩藩の弾薬庫から武器を大阪に移そうとします。

 

しかし、それを目撃した薩摩士族は

 

当然のことながら怒り狂い衝突。

 

政府側の弾薬庫を襲撃し、衝突が起こります。

 

その上、西郷隆盛を暗殺する計画があると

 

まことしやかに噂が広がり始めました。

 

実際に大久保利通の使者が

 

西郷暗殺を自白したという事実もありますが、

 

これは大久保利通が心配して、

 

「西郷を視察するように」という命令が

 

「西郷を刺殺するように」と

 

誤って伝えられたからだという説もあります。

 

これはさすがに無理がありそうな説ですが・・・

 

 

日本最後の内戦!!西南戦争とは!?

 

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そして、とうとう私学校(薩摩軍)と明治政府との

 

衝突は避けられないものとなり、

 

とうとう、1877年(明治10年)

 

私学校(不平士族)は蜂起し、明治政府と激突

 

日本最後にして最大の内乱に突入します。

 

西郷隆盛を総大将とした薩摩軍は

 

鹿児島を立ち、熊本城の攻略を目指します。

 

熊本城は堅牢で難攻不落

 

この作戦を耳にした隆盛の弟西郷従道は、

 

「このような作戦を兄が取るはずはない。」

 

と口にしたといわれています。

 

しかし、これは推論になりますが、

 

西郷隆盛は本当に明治政府を攻略するのであれば、

 

陸路ではなく、十分な海軍力を備えた

 

薩摩藩の戦艦をもって江戸に向かうのが

 

上策であることもわかっていたはず。

 

日本全国を巻き込んだ内戦となることを防ぐために、

 

あえて、難攻不落の熊本城攻略を

 

選択したのではないかとも考えられます。

 

まさに死闘!!田原坂・・

 

西郷隆盛 西南戦争 田原坂 征韓論 西郷従道

 

当然のことながら、難攻不落の

 

熊本城を落とすことはできません。

 

その間にも明治政府軍は次々と援軍を送り込みます。

 

その援軍の到着を阻むために、

 

政府軍の熊本への進軍途上の「田原坂」に向かいます。

 

必死の決意の薩摩軍に政府軍は手を焼きますが、

 

旧会津藩士を中心とした「抜刀隊」を結成し対抗します。

 

会津藩は、幕末において薩摩藩に滅ぼされた恨みから

 

大奮戦し、田原坂での薩摩軍を退けました。

 

そして、このころには薩摩郡は疲弊し、

 

兵の数も300人程度まで減っていしまいます。

 

対する明治政府軍は7万人以上に膨れ上がっていました。

 

もう、勝負ありですよね・・・

 

 

鹿児島へ帰還!!そして自決・・・

 

西郷隆盛 西南戦争 田原坂 征韓論 西郷従道

 

田原坂での戦いに敗れた薩摩郡は、

 

鹿児島に撤退し市内の城山を占拠して立てこもります。

 

1877年(明治10年)9月24日に

 

最後の総攻撃を仕掛けますが、

 

藩士は次々に銃弾に倒れ、西郷隆盛もまた、

 

腹と脚に銃弾を受け、

 

最後を悟って自決をしたのでした。。

 

西郷隆盛の真意はどこにあったのか?!

 

西郷隆盛 西南戦争 田原坂 征韓論 西郷従道

 

明治政府から下野した西郷隆盛でしたが、

 

内乱を起こすような気持ちは最後までなかったのでしょう。

 

しかし、不満を持つ士族の気持ちも痛いようにわかる。

 

その時の西郷隆盛の苦悩

 

計り知れない大きなものだったと思えます。

 

私学校で最後まで面倒を見ようとしましたが、

 

彼らの気持ちを押さえきることができず、

 

最後は「この体は、お前さあらに捧げもんそ。」

 

と言う言葉を伝えています。

 

その時、西郷隆盛は彼らの気もちを抱えたまま

 

一緒に死ぬことを覚悟していたのでしょう。

 

 

そして、その時大久保利通は号泣した!!

 

西郷隆盛 西南戦争 田原坂 征韓論 西郷従道

 

西郷は「私学校で教育した士族を、

 

再び明治政府の新たな役割を与えて欲しい。」と考えていて、

 

この思いは大久保利通にも届いていたと思います。

 

子供の頃からの親友ですから、

 

西郷の思いも苦悩も一番理解していたのは

 

やはり大久保だったことは間違いありません。

 

大久保利通は戦争になる前に伊藤博文に、

 

「西郷がいるから鹿児島では軽はずみな事は起きないだろう。」

 

と伝えています。

 

西郷もまた、下野する際に大久保に

 

「明治政府の後を頼む。」と言い残しています。

 

西郷の自決を聞いた時の

 

大久保の無念を考えると、胸が痛くなりますよね。

 

西郷隆盛は不平士族のすべてを引き受けて、

 

大久保利通の明治政府の成功を願ったのではないでしょうか。

 

明治維新、これは、西郷隆盛と大久保利通、

 

この二人の友情の物語なのかも知れませんね。

 

引き続き、「歴史に隠された黒い噂と黒歴史」をお楽しみください!!

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