【西郷隆盛】の真実! プライベートも波乱万丈、そしてその子供は?

西郷隆盛 征韓論 子孫 子供 伊集院須賀 愛加那 糸子 酉三 午次郎 寅太郎 菊次郎 菊草 菊子

 

西郷隆盛」、歴史にそれほど詳しくない人でも

 

「この名前を一度も聞いたことがない。」

 

という日本人はおそらくいないのではないでしょうか。

 

明治維新の立役者であり、

 

現代日本の礎を築いた英雄に間違いありません。

 

しかし、歴史家の間では

 

「西郷隆盛の評価は難しい。」とも言われます。

 

それもそのはず、倒幕をなし明治維新を成し遂げながら、

 

後には日本最後の内戦といわる

 

西南戦争」の首謀者として自殺を遂げてしまいます。

 

生涯を明治維新にかけた英雄ですが、

 

そもそも、西郷隆盛とはどういう人物なのか?

 

家族は?子供は?・・・?  

 

歴史の教科書には触れられていない、

 

今回は人間「西郷隆盛」の一面に

 

家族子供の切り口から紐解いて行きましょう!

 

  • 西郷隆盛の波乱の生涯とは!?
  • 西郷隆盛のプライベートも波乱万丈!?
  • 西郷隆盛の子供はその後どうなった?!

 

 

西郷隆盛の波乱の生涯とは?

 

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1827年(文政10年)12月7日、

 

鹿児島城下で生まれ、幼名は小吉

 

元服して「隆盛」を名乗ります。

 

通称は吉之介、雅号は南州と名乗ります

 

昔の武士は名前がいくつもあってややこしいですね。

 

ここでは、隆盛で表記することにします。

 

ちなみに、雅号とは書や絵画などに使用する

 

ペンネームのようなもので、芸名があるなんて、

 

色んな顔を持ち合わせていたのですね。

 

隆盛の実家はいわゆる下級武士で、

 

生活にも苦労するような家のようでした。

 

近くには3歳年下の大久保正助利通)の家があり、

 

この大久保正助もまた下級武士で

 

父親が流罪になって相当苦労の多い家だったようです。

 

この二人は本当に子供の頃から

 

仲の良い幼馴染だったんですね。

 

隆盛は13歳の時にけんかの仲裁で

 

刀傷を負って、トラウマからか、

 

剣術が不得意となり、

 

ひたすら学問に励みます。

 

27歳の時に藩政に対する意見が

 

当時の藩主である島津斉彬に認められ、

 

側近として活躍します。

 

ここからが隆盛の波乱万丈の人生の始まりで、

 

取り立ててくれた藩主島津斉彬は程なく死んでしまい、

 

次の藩主島津久光には疎んじられて、

 

自殺未遂をしたり島流しになったり・・・

 

大久保利通の尽力で藩政に

 

復帰するまでの数年間は苦労の連続でした。

 

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藩政に復帰した隆盛は存在感をぐんぐん増して、

 

禁門の変などで一度は敵対した長州藩と

 

薩長同盟」を結び、倒幕を成し遂げます。

 

明治維新をなした隆盛は一度は鹿児島に戻りますが、

 

大久保利通や岩倉具視などの新政府の要人の誘いにより

 

参議”として新政府の要職につくことになります。

 

そして、

 

  • 廃藩置県
  • 学生発布
  • 地租改正

 

などなど、

 

現代社会のベースとなった社会の新制度を

 

次々に成し遂げていきました。

 

しかし、突っ走った隆盛は他の新政府の役人

 

大久保利通岩倉具視木戸孝允など)

 

と徐々に折り合いが悪くなってきて、

 

隆盛の唱えた「征韓論」(朝鮮半島を武力制圧すること)

 

などでの対立から政府役人を辞任し鹿児島にもどりました。

 

鹿児島に戻った隆盛の元には、

 

不満をもった倒幕を成し遂げながら優遇されない

 

旧武士たちが集まりう、とうとう、新政府に対して

 

歯向かう日本最後の内戦”西南戦争”を引き起こし、

 

隆盛自身、最後は自害してしまいました。

 

この、隆盛のなしたに関しては、

 

本当に”賛否両論”なんですよね。。

 

西郷隆盛という人間を、並みのものさしで

 

計ろうとすること自体に無理があるのかもしれません。

 

 

西郷隆盛のプライベートも波乱万丈!?

 

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そんな波乱万丈な歴史人の西郷隆盛ですが、

 

彼のプライベートはいったいどうだったのでしょうか?

 

隆盛は3度結婚しています。驚いたことに、

 

今で言う”バツ2”なんですよね。^^;

 

第一の結婚 「伊集院 須賀」さん

 

24歳の時に結婚しましたが、当時の隆盛は

 

下級武士で対して「伊集院 須賀」さんは、

 

島津家支流伊集院家のお嬢様で家柄としては

 

まったく釣り合いが取れていませんでした。

 

隆盛の一目惚れで嫁入りをしたそうですが、

 

貧しい生活とあまり家に帰ってこない隆盛との

 

折り合いがつかず、いわゆる協議離婚をしたそうです。

 

第二の結婚 「愛加那」さん

 

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愛加那」さんは奄美大島の有力者龍為志の娘さんです。

 

当時、隆盛は奄美大島に流罪になっていました。

 

しかし、一説には安政の大獄で勢いがあった

 

尊皇攘夷派から隆盛を守るために

 

あえて島流しにしたという説もあります。

 

そして、当時の薩摩には「島妻(アンゴ)」という制度があり、

 

奄美にいる間だけの妻をめとることが

 

制度として許されていました。

 

現代では完全にNG!ですが・・・^^;

 

結婚した時は隆盛が33歳、愛加那は23歳でした。

 

愛加那さんとの間には、

 

菊次郎菊草(菊子)という二人の子供が生まれますが、

 

結婚生活はわずか3年で終わります。

 

藩主、島津久光からの召還により

 

3年で鹿児島に戻ることになったためです。

 

島妻」制度により愛加那さんは連れて行けずに

 

今生の別れとなったようですが、

 

制度とはいえ切ない別れですね。。

 

 

第三の結婚 「糸子」さん

 

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隆盛が37歳の時で、「糸子」さんもバツ1で21歳でした。

 

このときの媒酌人は薩摩藩家老の小松帯刀でした。

 

3度目の結婚の際には藩の家老が媒酌人を努めるほど、

 

隆盛も出世をしていたようですね。

 

とはいっても、西郷隆盛が下級武士であることに変わりはなく、

 

明治二年に屋敷に引っ越すまでは4間の借家暮らしで、

 

隆盛も日本全国飛びまわっており、

 

あまり家には帰ってこない生活でした。

 

ちなみに、この狭い借家には坂本龍馬も泊まりに来ています。

 

その時に、糸子は雨漏りのする狭い借家に

 

坂本龍馬を滞在させたことを恥じたようですが、

 

その時に隆盛は、

 

今は日本全国がこのような状態なのだ。
我が家だけではない。

 

とたしなめたという逸話も残っています。

 

糸子さんと隆盛の間には、

 

  • 長男 「寅太郎
  • 次男 「午次郎(うまじろう)」
  • 三男 「酉三

 

の三人の子供を設けました。

 

隆盛は37歳の結婚で3人の子供なので、やっぱり元気ですね。

 

子供の名前は、生まれ年の干支にちなんでいるようで、

 

やや安易な気もしますが・・・^^;

 

ともあれ、この糸子さんという女性は

 

本当に面倒見のいい人物だったようで、

 

維新後に屋敷に移ってからは愛加那さんとの間の子供である、

 

菊次郎と菊草(菊子)の二人を引き取って面倒を見ていたそうです。

 

 

西郷隆盛の子供はその後どうなった?!

 

というわけで、2番目の奥さんと3番目の奥さんの間に

 

合計5人の子供がいる西郷隆盛ですが、

 

それでは、その子供たちは

 

いったいどんな人生を歩んだのでしょうか?

 

愛加那さんの子供たち

 

【菊次郎】 出世街道まっしぐら!?

 

西郷隆盛 征韓論 子孫 子供 伊集院須賀 愛加那 糸子 酉三 午次郎 寅太郎 菊次郎 菊草 菊子

 

菊次郎」は、隆盛が奄美に流罪になっていた時に

 

愛加那さんとの間に生まれた長男です。

 

維新後は隆盛の家に引き取られ、

 

12歳の時から2年6ヶ月のアメリカ留学を経験します。

 

帰国後は西南戦争に薩摩郡の一員として従軍しますが、

 

その際に負傷して右足を失ってしまいました。

 

負傷兵として投降した菊次郎を

 

隆盛の西郷従道は喜んで迎え入れたそうです。

 

その後は一度は奄美に戻って

 

母親の愛加那さんの面倒を見ますが、

 

23歳の時には再び上京し外務省に勤めます。

 

留学経験があり、語学堪能な菊次郎は

 

時代が必要とした人材だったのでしょう。

 

その後も、日清戦争により日本領となった

 

台湾に4年間赴任、台湾では公共事業に力を入れ、

 

宣蘭市につくられた堤防にはその名が刻まれていて、

 

彼の功績は現在でも尊敬の念を集めています。

 

帰国後は第二代京都市長として6年間努め、

 

1928年に亡くなりました。

 

・菊草(菊子) 長年苦労しっぱなし!

 

西郷隆盛 征韓論 子孫 子供 伊集院須賀 愛加那 糸子 酉三 午次郎 寅太郎 菊次郎 菊草 菊子

 

一方、同じ愛加那さんの子供でも

 

長女の「菊草(菊子)」さんは苦労の多い生涯だったようです。

 

12歳の時に奄美大島から西郷本家に引き取られ、

 

14歳の時にいとこの大山誠之助と婚約します。

 

大山誠之助は、陸軍大将として

 

日清・日露両戦争を勝利に導いた大山巌陸軍大将息子です。

 

※日露戦争時は満州軍総司令官

 

誠之助は、西南戦争に菊次郎とともに従軍しますが

 

投降し、宮城県の刑務所に収監されます。

 

2年後に釈放され、鹿児島で菊草さんと結婚しました。

 

誠之助30歳、菊草17歳の時でした。

 

その後、4人の子供に恵まれますが、

 

誠之助の借金暴力に随分悩まされたようです。

 

西南戦争の敗北から投獄で随分すさんだようですね。

 

同じく投降した菊次郎とのあまりの境遇の違いも

 

その一因だったのかも知れません。

 

1907年、誠之助とようや離婚ができた菊草さんは、

 

京都市長の兄菊次郎の元に身を寄せ、

 

2年後に亡くなっています。

 

 

糸子さんの子供たち

 

長男 【寅太郎】 生涯一軍人!

 

西郷隆盛 征韓論 子孫 子供 伊集院須賀 愛加那 糸子 酉三 午次郎 寅太郎 菊次郎 菊草 菊子

 

西南戦争後は鹿児島で生活をしていた「寅太郎」ですが、

 

18歳の時に明治天皇からドイツへの留学を命じられます。

 

ドイツでは陸軍士官学校に学び、

 

13年間をドイツで暮らします。

 

これは、西郷隆盛の名誉回復を願った

 

勝海舟らの明治天皇への働きかけから

 

実現したといわれています。

 

長い留学を終えて帰国した寅太郎は陸軍少尉となり、

 

父隆盛の明治維新への功績から

 

侯爵として取り立てられます。

 

西郷隆盛の名誉が回復された象徴的な出来事ですね。

 

その後、第一次世界大戦時には

 

東京俘虜収容所の所長となり、

 

捕虜となったドイツ兵を人道的に扱いました。

 

ドイツ留学の経験が生きたのでしょう。

 

しかし、その当時流行したスペイン風邪におかされ、

 

1919年に亡くなっています。

 

次男 【午次郎(うまじろう)】 穏やかな人生!

 

午次郎」(うまじろう)に関しては、

 

それほど多くの資料が残されていませんが、

 

日本郵船の秘書として働いていたという記録が残っています。

 

晩年には母親の糸子さんを引き取り、

 

なくなるまでの3年間ほどを仲良く暮らしました。

 

また、日本郵船を退職後には西郷従道から

 

一部の土地を譲り受けて悠々自適の生活を送っていたようです。

 

三男 【酉三】 若くして他界!

 

三男の「酉三」に関しても詳しい記録は残っていません。

 

30歳の若さで結核で亡くなっています。

 

西郷隆盛という人物、歴史上の偉人として

 

波乱万丈な生涯で数々の功績を残しました。

 

その陰で隆盛の家族は、おそらく、

 

西郷隆盛という父親の存在の大きさに悩みながらも、

 

その功罪を背負ってそれぞれの人生を全うしたようです。

 

鹿児島では今でもその子孫が活躍しているようですが、

 

脈々と薩摩の剛腕の血が受け継がれているのですね。

 

引き続き、「歴史に隠された黒い噂と黒歴史」をお楽しみください!!

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