【織田信長】日本史上“最大のミステリー”「本能寺の変」に新事実が?!

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本能寺の変」は、天下統一を目前にした

 

織田信長」が家臣の「明智光秀」に

 

京都の本能寺で討たれた、

 

日本の歴史上のターニングポイントとなる

 

大事件ですが、この事件では

 

不可解な点が多々あり、

 

また明智光秀の動機にも様々な説があるため、

 

日本史上最大のミステリーとも言われています。

 

そんな中、最近になって明智光秀の動機に迫る

 

新事実が続々と出てきています。

 

更にそれらの背後には信長と足利家との

 

因縁も見え隠れしています。

 

ここでは「本能寺の変」に関する

 

様々なミステリーをご紹介するとともに、

 

最近になって出て来た新事実をもとに、

 

その真相に迫りたいと思います!!

 

  • 日本史上“最大のミステリー”「本能寺の変」とは?!
  • 本能寺の変ななぜ起きた?光秀の動機にまつわる諸説とは!?
  • 新説!急浮上した「四国説」と「室町幕府復興説

 

 

日本史上“最大のミステリー”「本能寺の変」とは?!

 

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信長が本能寺を宿所にした本当の理由とは!?

 

「本能寺の変」は、天正10年6月2日早朝、

 

京都本能寺に滞在していた織田信長を、

 

家臣であった明智光秀謀反を起こして

 

襲撃した事件で、寝込みを襲われた信長は

 

既に包囲されたことを悟ると、

 

寺に火を放ち自害して果てた事件ですが、

 

この舞台となった本能寺とは

 

どういうお寺だったのでしょうか?

 

そして、信長はなぜ、本能寺を

 

宿所にしていたのでしょうか?

 

その本能寺とは京都府京都市中京区にある、

 

法華宗本門流の寺院です。

 

信長は京都に入るときは

 

本能寺を宿所にしていました。

 

なぜ、自分のお城を持たずに

 

お寺を宿にしていたかというと、

 

室町幕府の最後の将軍、

 

足利義昭との微妙な関係があった

 

と言われています。と言いますのは、

 

時を遡ること1568年9月に信長は

 

足利義昭を奉じて上洛

 

織田軍が室町幕府を傀儡化していた

 

三好氏を駆逐すると、朝廷は義昭を

 

室町幕府15代将軍に任命しました。

 

その後、信長は義昭の居城を

 

京都の中心部に築きました。

 

これは世間に

 

「義昭が将軍であることを示すため」

 

と言われています。一方で信長自身の京都に

 

屋敷を持とうとしませんでした。

 

なぜなら義昭の居城の周囲に屋敷を持てば

 

信長が義昭の家臣であることを

 

認めることになります。信長にとって

 

義昭を将軍に立てることは一時的な

 

政治利用でしかなかったので、

 

自らの立場を曖昧にするために

 

屋敷は持たず寺院を宿所として

 

利用することを考えました。

 

寺院の境内は十分な敷地があり当時、

 

大名が宿泊することは

 

珍しいことではありませんでした。

 

中でも市街地に隣接した本能寺は

 

寺とはいえ四方を堀で囲まれ

 

堀の内側には土塁が張り巡らされ

 

さながら「要塞」のような構えをしていたので、

 

信長の宿所としては防衛面でも都合がよく、

 

以後、上洛の際は宿所としていました。

 

 

中国遠征の途中で立ち寄った本能寺でお茶会を開催?!

 

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本能寺の変の際、信長が京都にいた理由は

 

何故だったのでしょうか?

 

これは中国地方に遠征に行く途中で

 

京都に立ち寄ったとされていますが、

 

他にも理由があったようです。

 

その1つが、本能寺の変の前日に

 

本能寺で催された茶会

 

茶会には京都の公家や高僧たち他、

 

伝説の茶入れ「楢柴肩衝(ならしばかたつき)」を持つ

 

博多の商人、「島井宗室」が招かれていました。

 

茶器にこっていた信長は「楢柴肩衝」を手に入れようと、

 

本能寺に大量の名物茶器を持ち込んで

 

自慢のコレクションを披露してもてなしたそうです。

 

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楢柴肩衝」はもともと足利義政

 

所有物だったそうですが、彼の死後は

 

持ち主を転々とし博多の島井宗室へ渡っており、

 

これを何とかして手に入れたかった、

 

垂涎の的だったのですね。

 

尚、信長の上洛はこの茶会の目的の他に、

 

朝廷側と任命される役職について

 

話をする目的もあったとも言われています。

 

 

お茶会後の宴の後に本能寺の変、勃発!

 

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信長が本能寺でお茶会を催した後の宴で

 

楽しい時間を過ごしている頃、

 

信長に羽柴秀吉の毛利攻め支援を命ぜられた

 

明智光秀はいったん出陣しましたが、

 

途中で重臣達に信長討伐の意を告げ

 

京都へ向かいました。この時、兵士たちは

 

信長討伐という目的を最後まで知らされず、

 

行先の変更は信長の命で

 

徳川家康を討つためと思わされていたそうです。

 

そして本能寺を包囲しますが、

 

この時、光秀軍13,000人に対し、

 

信長の守りは100人足らず。

 

なぜこれほどまでに信長の警備が手薄だったのかは

 

分かっていませんが、もはや天下を手中に治めた

 

という油断があったのかもしれませんね。

 

 

寝込みを襲われた信長は寺に火を放ち自害しました。

 

信長の嫡男の信忠は、

 

この日は妙覚寺に宿泊しており、

 

妙覚寺から二条城に逃げて戦いましたが

 

敵の猛攻に耐えられず自害しました。

 

信長、信忠の2人の死によって

 

天下人となった明智光秀ですが、

 

肝心の信長、信秀の遺体が見つからず

 

は届きませんでした。そのため、

 

味方になってくれる大名が少なく、

 

結果的に中国大返しで畿内に戻った

 

羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れてします。

 

そして逃げ延びる途中で落ち武者狩りの農民に

 

槍で刺され重傷を負い、その後自害します。

 

本能寺の変からわずか13日後のことでした。

 

 

本能寺の変ななぜ起きた?光秀の動機にまつわる諸説とは!?

 

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江戸時代から語られてきた信長への「怨恨説」

 

さて、光秀がこの本能寺の変を起こした

 

理由はいったい何だったのでしょうか?

 

江戸時代から現代にいたるまで

 

この理由は詮索され諸説がありますが、

 

主流だったのは信長のイジメによる「怨恨説」。

 

信長は光秀を大変可愛がっていたそうですが、

 

それ故かイジリもエスカレートしていたようで例えば、

 

皆の前で信長に酒を強要され

 

お酒を飲めない光秀が辞退すると

 

「わしの酒が飲めぬか。ならばこれを飲め」

 

を口元に突き付けられたり、

 

禿げていることをバカにされたりしていたそうです。

 

現代で言う、まさにパワハラの極致ですね^^;

 

ですが、光秀にとって特に辛かったのは

 

敵方に人質に出していた母親

 

信長の違約によって殺されたことと、

 

本能寺の変の直前に領地を取り上げられて

 

出雲・石見への国替えを命じられたと

 

ではないかと言われています。

 

こうした度重なる恨みが積もり積もって、

 

本能寺の変を引き起こしたというのが「怨恨説」です。

 

 

羽柴秀吉「黒幕説」

 

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 一方で光秀は何者かに操られていた・・・

 

という「黒幕説」も諸説あります。

 

中でも「誰が一番得をしたのか?」という視点で

 

真っ先に名前が挙がるのは羽柴秀吉でしょう。

 

本能寺の変の起きた際、

 

秀吉は中国地方の毛利氏と戦っていました。

 

勝てるところまできていましたが、

 

最後は中国地方に信長を呼びます。

 

信長はその途中の京都・本能寺で殺されましたが、

 

信長の死を知った秀吉は、大軍を連れて

 

中国から山崎まで200キロの距離を

 

何と!10日間で駆け抜ける

 

中国大返し」を成功させます。

 

甲冑をつけた大軍が200キロの過酷な移動後に

 

明智軍と戦って勝利をするというのは、

 

あまりに出来過ぎのため、実は秀吉は

 

光秀と共謀し本能寺の変のことを知っていながら

 

光秀を裏切ったのではないか?とも言われています。

 

 

徳川家康「黒幕説」

 

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本能寺の変の際に、大阪の境にいた

 

徳川家康は信長の死を知ると

 

急いで愛知の城に戻ったそうです。

 

途中、落ち武者狩りから命からがら逃れ

 

山道をひたすら逃げたこの時のことは

 

神君伊賀越え」として語られています。

 

この話からすれば、徳川家康は黒幕に思えませんが、

 

実は家康は以前に長男と正室

 

信長の命で殺されており、

 

家康が信長に恨みを持っていたとしても

 

不思議ではありません。そんな家康は

 

信長に恨みを持つ家臣同士ということで

 

光秀とで繋がっていたという説もあります。

 

その説によれば光秀は信長の命により

 

本能寺で家康を討つはずだったが、

 

その命に背いて信長を討ち、

 

家康は援軍を送るはずが秀吉の中国大返しで

 

退却を余儀なくされた、のだとか。

 

この時の光秀に対する悔恨の思いからか?

 

日光東照宮には明智の家紋が沢山あるそうですが。。。

 

真相はいかに??・・・

 

 

朝廷「黒幕説」

 

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破天荒な信長は朝廷とあまり仲が良くなかったそうです。

 

どんどん勢力を増していく信長を

 

朝廷が脅威に感じたとしても不思議ではありせん。

 

そこで朝廷は信長を排除するために

 

朝廷に近かった光秀に信長を討つことを命じた、という説。

 

この説に関係して、本能寺の変の前日に催された茶会は、

 

朝廷が安土の信長を呼び出すために伝説の茶入れ

 

楢柴肩衝(ならしばかたつき)」を用いた、

 

とも言われています。またこの時の上洛では

 

朝廷側と任命される役職の打ち合わせもあったと

 

言われていますので、朝廷側が呼び出したという説は

 

それなりに説得力がありますよね。

 

尚、明智光秀は軍人としての評価も超一流ですが、

 

文化人としても非常に長けた人で

 

公家や朝廷との外交官役としても活躍していました。

 

光秀のそういう一面も朝廷黒幕説

 

後押ししているのかもしれませんね。

 

 

新説!急浮上した「四国説」と「室町幕府復興説」

 

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光秀は長宗我部氏を守るために本能寺の変を起こした?!

 

本能寺の変を巡っては様々な説が語られてきましたが、

 

近年になって本能寺の変に関係する

 

書状が相次いで発見されたために、

 

新たな説が急浮上してきました。

 

まず、2016年に岡山で、四国の戦国大名、

 

「長宗我部元親」が光秀宛に送った

 

書状が出てきたそうです。

 

その書状の中身についてご紹介しましょう。

 

長宗我部元親は現在の高知県を治めていた

 

戦国大名です。四国を配下に治めたかった信長は、

 

光秀を調停役に任じて長宗我部氏と折衝をさせ、

 

信長に服従させることに成功します。

 

これに気を良くした信長は、

 

四国全土を長宗我部氏に任せる

 

という許可を出しました。

 

ですが長宗我部と争っていた

 

四国の三好康長らがこれに反発し

 

羽柴秀吉に近づいて長宗我部氏の

 

四国統一を妨害したのでした。

 

 

この三好氏永禄の乱で信長によって

 

当時の政権から駆逐された経緯があり

 

当初は反信長勢力でしたが、

 

当時の秀吉が毛利攻めに際して

 

三好軍の協力が必要であったため、

 

信長への工作を行って信長の意識を

 

変えていきました。結果、信長は長宗我部氏に

 

三好氏らの土地を返すように指示

 

当然、長宗我部氏は反発したため

 

信長は三男の信孝を大将とし

 

四国征伐」を命じます。

 

実は先の長宗我部元親が光秀宛に送った書状とは、

 

当初反発した長宗我部元親が

 

「信長様の命に従います」

 

と態度を変えた内容だったのです。

 

普通に考えれば、書状の内容は

 

光秀から信長に伝えられていると思われますが、

 

信長はそれにもかかわらず、

 

「四国征伐」を信孝に指示したのでした。

 

これを知った光秀は、自分の面目が潰される上に

 

家臣が長宗我部元親と近親関係にあったこともあり、

 

長宗我部氏を守らんとして本能寺の変を引き起こした、

 

というのが最近急浮上した「四国説」です。

 

これが事実なら光秀の謀反はなんと

 

男気溢れる行動でしょう。

 

 

光秀は室町幕府の復興を狙った?!

 

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更に光秀に関する発見は続きます。

 

本能寺の変の10日後に光秀が紀州の武将に送った

 

直筆の手紙が2017年9月に見つかりました。

 

手紙には、信長によって追放された

 

室町幕府最後の将軍、足利義昭の入京を

 

承知したとする内容が記されていたそうです。

 

つまり光秀には

 

「将軍足利義明を奉じ、室町幕府を再興する」

 

と言う明確な政権構想があった、と分析されています。

 

義昭はかつて信長によって

 

室町幕府15代将軍の座につきましたが、

 

それまで室町幕府を牛耳っていたのは

 

四国の三好氏です。ですので、

 

義昭と三好氏はもともと敵対する関係にあったことから、

 

同じく三好氏と敵対する長宗我部氏と義昭は

 

結びつきやすい関係性があり、

 

光秀は室町幕府を再興した後は

 

長宗我部氏や毛利氏ら反信長勢力と

 

手を結ぶ構想を持っていたとも言われています。

 

となると、「室町幕府復興説」と「四国説」は

 

どちらもあり得る説となりますね。

 

実際にこの2つの説は本能寺の変の有力な動機

 

として現在注目されているようです。

 

 

以上、本能寺の変にまつわる

 

諸説をご紹介してまいりました。

 

本能寺の変の前後の信長の行動には、

 

まるで事件を呼び込むかのような不可解な点が多く、

 

それ故に様々な陰謀論、黒幕説などが

 

まことしやかに語られることになったのでしょう。

 

この不可解な点が単なる偶然なのか、

 

誰かが意図したものなのか、真相は未だ闇の中ですが、

 

信長の人生には足利家が深く関わっており、

 

長らく明智光秀の単独謀反と思われていたのですが、

 

こんな大事を血迷って行うと言うのもおかしな話ですし、

 

本能寺の変にでも背後に

 

足利家の存在があったことは確かなようです。

 

これまであまり語られることのなかった

 

信長と足利家は深い因縁、

 

今後更なる真相が解明されるのが楽しみですね。

 

引き続き、「歴史に隠された黒い噂と黒歴史」をお楽しみください!!

 

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