【黒田官兵衛】が残した子孫と生涯について!5代目以降も続いた?

黒田官兵衛 子孫 黒田長高 黒田忠之 黒田光之 黒田網政 黒田宣政

 

戦国時代の三英傑の2人、

 

織田信長豊臣秀吉の家臣として

 

重要な役割を果たしたのが

 

黒田官兵衛」ですね。

 

混沌とした世の中にありながら、

 

主君を立てる働き

 

現代でも高い人気を誇っています。

 

そんな黒田官兵衛ですが、

 

子孫はどんな働きをしているのでしょうか?

 

ここでは、

 

黒田官兵衛が残した子孫と生涯

 

についてご紹介してきます。

 

 

黒田官兵衛が残した子孫と生涯について

 

黒田官兵衛 子孫 黒田長高 黒田忠之 黒田光之 黒田網政 黒田宣政

 

信長や秀吉の家臣として重積を全うした黒田官兵衛ですが、

 

その子孫がどんな働きをしたのか細部まで分かる史料は

 

残念ながら見つかっていません。

 

それでも官兵衛の直系血筋を調べてみると、

 

5代当主までで途絶えていると判明しました。

 

5代当主が病弱で子供を設けるだけの力が無かったので、

 

養子を貰っているんですね。

 

そのため現在まで続く直系の子孫はいませんが、

 

養子を貰ったことによって家督は受け継いでいます

 

家系図的には親子関係が維持されており、

 

現在にかけても直系ではありませんが子孫はいるのです。

 

ここでは直系の5代当主までの子孫が、

 

どんな活躍をしたのかを振り返ってみますね。

 

5代までの子孫は次の通りです。

 

  1. 2代:黒田忠之
  2. 3代:黒田光之
  3. 4代:黒田網政
  4. 5代:黒田宣征

 

 

1:黒田忠之

 

黒田官兵衛 子孫 黒田長高 黒田忠之 黒田光之 黒田網政 黒田宣政

 

2代当主「黒田忠之」は、1602年に産まれ1654年に没しました。

 

父の黒田長政が残した遺言に従い、

 

弟などに5万石を与えたりし、

 

福岡藩の石高は43万にも及んだようです。

 

ちょうどその頃、三大お家騒動の一つと数えられている、

 

黒田騒動」が勃発しており

 

黒田家は分裂の危機にありました。

 

初代当主・黒田長政は、

 

家督を引き継ぐ相手について悩んでいました。

 

黒田忠之は粗暴で福岡藩を任せるのに

 

適任ではないと感じており、

 

その弟が引き継ぐべきという考えを

 

明らかにしていたんですね。

 

そこに忠之の後見役である、

 

栗山大膳」が

 

様々な提案をしてこの騒動を乗り切り、

 

忠之が家督を受け継ぐようになります。

 

ただし江戸時代が始まった直後のお家騒動だったので、

 

幕府が掲げる軍縮に反する対応を取ったことが原因で

 

咎めを受けることにはなりましたが・・・。

 

どの時代でも後継者を選ぶ際に、

 

大小問わず騒動に発展するケースは見られるんですね。

 

現在では会社創業者が代表の座を退く際に、

 

創業者の家族を後継者として選ぶのか、

 

他の人を後継者にするのかでお家騒動に勃発することが多いです。

 

その大がかりなものが、「黒田騒動」でした。

 

 

2:黒田光之

 

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3代目は「黒田光之」で、1628年に産まれて1707年に没しています。

 

お家騒動の後、忠之が家督を受け継ぎ

 

その子供にあたる光之は、

 

後継者として育てられました。

 

黒田長政が危惧した通り、

 

黒田忠之は政局を見極めて運営していく能力に欠けており、

 

福岡藩は厳しい財政状況に陥っていたのです。

 

光之は父が残した負の遺産をどうにか解消するため、

 

厳しい倹約令を出すなどして財政状況を

 

改善させようと必死に努力しました。

 

これにより藩政改革が実現して、

 

財政状況が厳しいという状態を

 

少しずつ改善させることに成功したのです。

 

光之はこうした功績から分かるように、

 

学問にも精通をしていて

 

黒田家譜」を編集した子孫に残しました。

 

 

3:黒田網政

 

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1659年に産まれ、1711年に没したのが

 

黒田網政」です。

 

当初は叔父に子供がいなかった関係で、

 

そこの跡を継ぐ話になっていましたが、

 

父・光之の跡継ぎとして藩主になったという経緯を持っています。

 

自身に権力を集中させるため、藩主になったらすぐに

 

光之の側近を排除するなど

 

大胆な行動を取ることに。

 

この一件が端を発して、父・光之との関係が悪化。

 

さらに隣の佐賀藩との間で戦争が起こってしまい、

 

財政状況は悪化の一途を辿るのでした。

 

この財政状況をどうにか打破するため、

 

藩札を発行するのですが、

 

米価が大きく変動した関係で失敗に終わります。

 

佐賀藩との「背振山国境論争」がなければ、

 

網政は比較的楽な政治をしたのではないか

 

と言われているのです。

 

 

4:黒田宣政

 

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黒田宣政」は、1685年に産まれ、1744年に没しています。

 

5代目当主として執務を執り行う予定でしたが、

 

病弱で政務等を満足に行うことができませんでした。

 

その関係で、藩政などを黒田長清に担当させたのです。

 

黒田宣政は子宝に恵まれなかったということもあって、

 

長清の子供・継高を養嗣子として家督を引き継がせました。

 

この結果、黒田家の直系は宣政の代でストップするのです。

 

ここから現代にかけて、

 

16代も家督を受け継いでいるのですから驚きですよね。

 

 

いかがでしたか?

 

黒田官兵衛の子孫はどんな活躍をしたのかについて見ていきました。

 

直系が途絶えたとしても、

 

16代目「黒田長高」さんが

 

存命であるというのは、スゴイことです。

 

引き続き、「歴史に隠された黒い噂と黒歴史」をお楽しみください!!