【織田信長】が残していった11人の子供と生涯・裏話!!

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「織田信長」といえば、

 

戦国時代の三英傑の一人であり、

 

天下統一目前まで果たした武将として有名ですよね。

 

そこまで有名になった織田信長ですが、

 

その子供がどんな活躍をしたのかは

 

ほとんど分かっていません。

 

史料によれば、

 

信長には20人以上の子供がいたとされているのですが、

 

名前も年齢も母親が誰なのかも

 

不明な子供も多いのだとか。

 

では、織田信長にはどんな子供がいたのでしょうか?

 

ここでは、

 

織田信長が残していった11人の子供と生涯

 

についてご紹介してきます。

 

 

判明している織田信長の11人の子供とは?

 

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戦国時代は、女性に関する史料は

 

ほとんど残されていないのが普通でした。

 

織田信長の正室とされた濃姫(帰蝶)ですら、

 

正確な情報が欠如されているところから、

 

その事実が分かるでしょう。

 

信長と濃姫との間に子供はいないとされるのが定説ですが、

 

それも本当のところは不明です。

 

それではこれらの子供たちが、

 

どんな生涯を送ったのかを見ていきましょう。

 

1:織田信忠

 

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信長の側室・生駒吉乃との間に産まれた長男が

 

織田信忠」です。

 

1557年に産まれ、1576年に信長から

 

織田家の家督と尾張の一部を譲り受け、

 

岐阜城主となりました。

 

その後は大将となり、大阪攻めに出陣するなどし、

 

その名を全国へと轟かせることに。

 

1582年には武田氏攻略において、

 

大将となり相手方を滅亡に追いやるなど、

 

多くの活躍を見せました。

 

嫡男なので年齢でいえば長男ではありませんが、

 

それでも責任感の強さや頭脳明晰な点などは

 

父親譲りという見方もあるほど。

 

当初は鈍感という評判でしたが、

 

今は見直されつつあります。

 

そんな信忠ですが、本能寺の変に遭遇し

 

父親と一緒に自害をしたようです。

 

1582年没。

 

 

2:織田信雄

 

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吉乃生駒との間に産まれた次男が、

 

織田信雄」です。

 

父・信長が死去した後、

 

弟の信孝と領地争いを繰り広げました。

 

それだけに留まらず、信雄は徳川家康と手を組み

 

小牧・長久手の戦いを勃発させ、

 

豊臣秀吉とも敵対することに。

 

その後については詳しく記されていませんが、

 

どうやら内大臣になって大阪の陣後は

 

大和国五万石を領したそうです。

 

叔父から茶道を学ぶなど、

 

隠居生活を送った後1630年に

 

72歳で没したとされます。

 

有能さが秀でていれば、

 

信雄が天下を取っていたのではないかと言われるほど、

 

かなりのやり手だったようです。

 

 

3:織田信孝

 

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次男・信雄よりも先に産まれましたが、

 

母親の身分が低いということで三男という位置づけです。

 

神戸家の養子となったので、神戸信孝という名前に改名されています。

 

本能寺の変が勃発したときは、

 

兵士が逃げてしまい目立った活躍ができないでいました。

 

信長の死後は秀吉に攻められてしまい、

 

人質として母と娘を引き渡しましたが

 

兄の策略により居城を包囲されて降伏をします。

 

四面楚歌状態になった信孝は、

 

源義朝が殺されたという場所で自害をしたようです。

 

信長の死後、子孫である信孝は

 

間違いなく後継者として

 

天下統一に向けた主導者候補でした。

 

そこに野心燃える秀吉が立ちはだかり、

 

野望が実現することはなかったのです。

 

信孝の辞世の句には、

 

秀吉に対する強い恨みすら感じます。

 

 

4:羽柴秀勝

 

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1568年に母不詳の中産まれたのが、
羽柴秀勝」です。

 

1579年に秀吉の養子となったので、

 

苗字が1人だけ違っているんですね。

 

信長が本能寺の変で死去した際、

 

秀吉が主導となって行われた信長の葬儀では

 

秀勝が喪主を務めたとされています。

 

しかし、秀勝に関しては同時期に

 

豊臣秀勝や石松丸秀勝など、

 

様々な名前が登場するので

 

存在が疑問視されているようです。

 

5:織田勝長

 

織田勝長」は母・不明で1570年に産まれました。

 

岩村城主の未亡人の

 

おつやの方」の養子となります。

 

おつやの方は、秋山虎繁を夫として迎え入れた関係で、

 

武田方と和議を結ぶ条件として勝長は

 

甲斐に送られて武田信玄の養子となりました。

 

当然信長は激怒して、岩村城を奪還。

 

秋山虎繁とおつやの方を逆さ磔の極刑に処したとされます。

 

元服した勝長は犬山城主となりますが、

 

本能寺の変の際に明智軍と戦い討死。

 

 

6:織田信秀

 

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1571年に母不明で産まれます。

 

信秀に関しては史料がほとんど残されておらず、

 

不明な点も多く幼少はどのように過ごしたのかは分かっていません。

 

本能寺の変のときには難を逃れており、

 

清洲会議後に近江の地を分け与えてもらったという事実はあります。

 

晩年は髪の毛を剃り

 

、「浦坊」と名乗ったのだとか。

 

1597年に死因不明で没。

 

7:織田信高

 

お鍋の方を母として1576年に産まれたのが、

 

織田信高」です。

 

信長が死去した後、氏家行広のところへ預けられましたが、

 

兄の信秀が羽柴性を与えられたことを

 

きっかけとし秀吉に仕えることに。

 

その後羽柴性をもらい、

 

羽柴藤十郎と名乗ります。

 

関ケ原の戦いでは、どのような活躍を見せたのか

 

史料には詳しく載っておらず、1603年に没しました。

 

 

8:織田信吉

 

お鍋の方を母として1573年に産まれました。

 

本能寺の変が起きた後は、

 

お鍋の方と家の中で閉じこもっていましたが、

 

秀吉に召され

 

羽柴武蔵守」と名乗ったようです。

 

豊臣家が滅ぼされると、

 

京都に暮らし1615年に没します。

 

9:織田信貞

 

土方雄久の娘を母として1574年に産まれます。

 

信長が死去した後、豊臣秀吉の馬廻となって

 

近江国で1000石を与えられたようです。

 

関ケ原の戦いでは西軍について、

 

戦いの後に改易をして1624年に没しました。

 

 

10:織田信好

 

母・生年ともに不詳で、本能寺の変が起こった際は

 

まだ幼かったと記されています。

 

本能寺の変の後、羽柴秀吉に引き取られて

 

家臣となり、茶人としても活躍しました。

 

1609年没。

 

11:織田信正

 

原田直子を母として1554年に産まれています。

 

本能寺の変の後は、剃頭をしたとされていますが、

 

信正については史料に載っておらず

 

存在が疑問視されているのだとか。

 

1647年没とされていますが、

 

もし事実だとすれば93歳まで生きたことになります。

 

 

いかがでしたか?

 

信長の子供は男だけでも11人いたとされており、

 

女も含めれば20人は超えていたとも言われています。

 

戦国時代なので子供がどのような生涯を送ったのかについて、

 

詳しいことはほとんど分かっていないのが現状です。

 

特に羽柴秀勝と信正の2人は存在が疑問視されており、

 

本当にいたのかも怪しいほど。

 

400年以上も昔ですから、事実を知ることの難しさを感じさせますね。

 

日本史上最大のミステリー本能寺の変に新事実!」も合わせてお楽しみください!!

 

引き続き、「歴史に隠された黒い噂と黒歴史」をお楽しみください!!

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