【徳川家康】の性格が判明!行動や言動で分かった4つの本性とは?

徳川家康 性格 倹約家 ケチ 健康マニア 温厚 我慢強い

 

260年以上続いた江戸時代を築いたのが、

 

徳川家康」ですね。

 

戦国時代の三英傑の一人であり、

 

現代でも高い人気を誇っています。

 

そんな徳川家康ですが、

 

どういった性格をしていたのでしょうか?

 

ここでは、徳川家康の性格や本性についてご紹介してきます。

 

 

徳川家康に見られる4つの性格とは?

 

徳川家康 性格 倹約家 ケチ 健康マニア 温厚 我慢強い

 

徳川家康の性格を表現している川柳として、

 

鳴かぬなら、鳴くまで待とう、ほととぎす

 

はあまりにも有名ですよね?

 

この川柳から分かるように、

 

徳川家康は戦国時代の三英傑とされた、

 

織田信長や豊臣秀吉に比べて

 

我慢強い性格であることが分かります。

 

ですが、この川柳だけで家康の性格を

 

全て知ることはできません。

 

家康の歴史を見てみると、

 

以下のような性格が考えられるのです。

 

 

1:我慢強い性格

 

徳川家康は、我慢強いという性格は

 

あまりにも有名ですよね。

 

さきほど紹介した川柳は広く知られているので、

 

我慢強さを感じている人も多いです。

 

ではどうして、家康の性格を表す

 

この川柳が伝わるようになったのかが気になるところ。

 

実は徳川家康は、弱小な豪族の家に生まれ、

 

不遇な少年時代を過ごしていました。

 

今川氏の人質となっていた家康ですが、

 

織田信長が今川氏を倒すと自由の身となり、

 

信長と同盟を結ぶようになります。

 

しかし本能寺の変により信長が死亡すると、

 

家臣の豊臣秀吉が後を継ぐのですが、

 

その秀吉と家康は対立関係にありました。

 

秀吉の戦力や戦略における頭の冴えなどを考えると、

 

家康に勝ち目はないと判断し対立をしていましたが、

 

正面から突撃しようとは考えていなかったんですね。

 

秀吉が病死した後、チャンスと判断した家康は

 

関ケ原の戦いに勝利し、

 

1603年征夷代将軍となって晴れて天下人になりました。

 

不遇の少年時代を耐え抜き、

 

秀吉の影響かに置かれても

 

チャンスが来るまでじっくりと待ったその姿勢が、

 

「鳴かぬなら、鳴くまで待とう、ほととぎす」

 

という川柳が完成した由来です。

 

織田信長が倒された後、

 

もしかしたら家康が天下人になる

 

チャンスがあったかもしれません。

 

しかし「まだ動く時期ではない」と懸命に自制し、

 

結果的に天下人になれたのですから、

 

我慢強いという家康の性格は間違いではありませんね。

 

 

2:温厚・部下思い性格

 

戦国時代は現代よりも過激で、

 

隙あらば主君を裏切ってやろうという

 

ギラギラした欲望を持つ人が少なくありませんでした。

 

そこで生き抜くには、ある意味で

 

残酷な一面を持っていなければならず、

 

優しいだけの男では生き残れなかったんですね。

 

織田信長は平気で人を裏切り、

 

自分の思う通りに行動していましたし、

 

豊臣秀吉は主家から天下を強引に奪う

 

といった非常識な一面もありました。

 

でもそこは戦国時代。

 

今の常識は全く通用しない環境だったので仕方がありません。

 

こうした厳しい環境に置かれていても、

 

徳川家康は約束事を守り、

 

温厚で部下思いという性格をしていたようです。

 

というのも、豊臣家に大打撃を与えた

 

関ケ原の戦いは1600年に勃発し、

 

その後豊臣家が滅びたのが

 

1616年とされていますから

 

実に16年もの空白があります。

 

織田信長であれば、ここに16年も

 

空白を置くようなことはしないでしょうから、

 

温厚で我慢強い性格が見て取れますね。

 

また家臣の意見もしっかりと聞き、

 

相談にも乗っていたというエピソードもありますから、

 

部下思いな一面もあるようです。

 

だからこそ、我慢強く忍耐していても

 

家臣がしびれを切らずに仕えていたのかもしれません。

 

 

3:倹約(ケチ)な性格

 

天下人というのは、

 

贅沢三昧をしているイメージがありますよね?

 

豊臣秀吉は、不運が続いたことを払拭するために

 

30億円以上をかけて花見を盛大に行ったとも言われていますから、

 

贅沢というイメージがつくのも仕方ありません。

 

ところが徳川家康は当時としては変わった性格をしており、

 

倹約(つまりケチ)」だったと言われています。

 

とにかく贅沢を嫌い、質素な生活を

 

まず第一に心がけていたのだとか。

 

様々な倹約エピソードがありますが、

 

その中でも有名なものを抜粋して紹介しますね。

 

  • 汚れても目立たない理由から黄色い着物を好み、あまり洗濯しなかった
  • 着物をほとんど新調はせず、ボロボロになるまで着ていた
  • おかわりをする奥女中に、おかわりをあまりさせないように漬物を塩辛い状態にした
  • 食事は「食べられれば良い」という状態にし、質素な食事ばかりを摂っていた

 

天下人になったのだから、

 

高価な着物や豪華な食事を

 

用意しようと思えば簡単だったでしょう。

 

しかしそのようなことはせず、

 

すべてを貯蓄に回し260年も続く江戸幕府の礎を築いたのでした。

 

 

4:健康マニアな性格

 

徳川家康は、この時代にしては

 

長寿の75歳まで生きました。

 

死因については色々と言われていますが、

 

がん」の可能性が高いと考えられているようですね。

 

75歳ともなれば天寿を全うしたと言えると思いますが、

 

そこまで長寿だったのは

 

健康マニア」な性格を持つ

 

家康だったからではないかとも言われています。

 

というのも、徳川家康は麦飯を好んだという記録があり、

 

今でいうところの

 

有機(オーガニック)」を中心とした食生活を送っていたようです。

 

健康でなければ天下泰平を

 

実現できないと強く考えており、

 

長く生きることが何よりも大切と思っていました。

 

自分で調合した漢方薬を、

 

根付」と呼ばれる筒状の入れ物に

 

入れて持ち歩いていたのです。

 

江戸以前は薬はとても高価なもので、

 

持ち歩くような考えはありませんでした。

 

しかし家康が根付を持ち歩くことを推奨してから、

 

薬は広く使われるようになったのだとか。

 

健康」であることが、

 

幸せの基礎だと気付いていたんですね。

 

 

いかがでしたか?

 

徳川家康の性格について、エピソードを交えて紹介しました。

 

我慢強いだけでなく、色々な性格が

 

見られるので親近感が沸きますよね。

 

そんな天下人の家康さん、人生の終焉、

 

家康の謎の死因とは!?」も合わせてどうぞ!

 

引き続き、「歴史に隠された黒い噂と黒歴史」をお楽しみください!!

関連ページ

【徳川家康】の最期…殺害・死因で考えられている3つの説とは?
徳川家康は江戸時代の間は神格化されており、その存在は絶対だと信じられてきました。そのため数々の伝説が創り上げられており、どれが事実なのか分からなくなっているのも現状です。そんな徳川家康ですが、実は死因に・・・
【徳川家康】は影武者だった!?徳川家康に隠された2つの裏情報とは?
徳川家康は戦国時代を終わらせた偉人であり、江戸時代を通して神君と呼ばれていたのでその出自を疑う者はだれもいませんでした。ところが近年になると、徳川家康は人生のいずれかのタイミングで別人と入れ替わったのではないか・・・
黒幕は【徳川家康】!?正室【築山】殿の死と悪女説の裏にあった陰謀とは?
徳川家康の正室の築山殿ってご存知でしょうか?築山殿は天下人の徳川家康の正室ですから、同じく天下人の豊臣秀吉の正室の北政所のような、夫の出世を陰で支える聡明な女性をイメージする人が多いかもしれません。ですが築山殿は聡明どころか悪女として名高く、徳川家の敵将、武田勝頼と通じて、織田信長と家康を滅ぼそうとした疑いで、家康によって殺害されているという驚きの運命をたどった女性でした・・・
嫌い?好き?【徳川家康】の城から垣間見える秀吉との因縁とは!?
天下人、徳川家康の城と言えば、江戸城や名古屋城など有名なお城が全国各地にあります。それらの城の多くに、実は豊臣秀吉の影がちらついているのをご存知でしょうか?人生の後半を豊臣家との戦いに費やした家康にとって、当時の軍事拠点である城は、必然的に豊臣家を意識したものにならざるを得ませんでした。一方で、家康は長らく豊臣家を支える立場でもあったため、豊臣家が敵であることは表向きには出せず、複雑な胸中でもあったようです。そのことは、家康のお城にも表れており、秀吉憎し!?と言わんばかりに秀吉の城を壊してその上に建てたものもあれば、秀吉の城をそのまま居住用にして大切にしたものもあり、家康の秀吉に対する複雑な胸中を垣間見ることができます・・・
【徳川家康】の【名言】から垣間見える地味キャラの理由とは?!
戦国時代の天下人と言えば、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康ですが、一番成功したはずの徳川家康は、あまり人気がありませんよね?信長には個性的で武将としての天才的な魅力があり、秀吉には農民から天下人となる下剋上の魅力がありますが、家康には信長のような華々しさや秀吉のようなドラマティックなイメージがないためでしょうか。しかし家康の華々しさやドラマティックさとは無縁の地味キャラは、実は意図したものであり、信長や秀吉を反面教師として学んだ結果でもありました。そのことは、家康が残した数々の名言の端々からうかがうことが出来ます。その結果、信長や秀吉がなし得なかった本当の意味での天下統一を果たし、長期政権を確立できたのです・・・
【徳川家康】将棋士がスパイだった!?家康が囲碁と将棋の名人を手厚く保護した目的とは?!
囲碁と将棋と言えば、プロ棋士による名人戦などが有名ですが、この仕組みを作ったのは徳川家康だったのをご存知でしょうか?囲碁と将棋は戦国時代に戦国武将たちに大変好まれましたが、中でも徳川家康の囲碁と将棋好きは特に有名です。家康は囲碁や将棋が好きであっただけに留まらず、天下を取ると棋士たちに俸禄を与えて手厚く保護をしました。これにより囲碁と将棋のプロ棋士が誕生し、その人気は庶民にまで広がって現代に至ります。つまり囲碁界、将棋界は徳川家康さまさま!更に私たちも家康がいなかったら囲碁や将棋の名人戦を見ることは出来なかったかもしれません・・・
【徳川家康】は日光東照宮に埋葬されていない?!家康のお墓にまつわるミステリーとは?!
徳川幕府260年の礎を作った徳川家康は、75歳でこの世を去り日光東照宮に祀られています。現代に生きる私たちは、日光東照宮は家康のお墓で、家康の亡骸も東照宮に埋葬されている・・・となんとなく思っていますが、実は日光東照宮は家康のお墓ではないかも!?更に、日光東照宮には家康の亡骸がないかも!?という説があるのをご存知でしょうか?家康のお墓をめぐっては現代でも解明されていないミステリーがあるのです。では、家康のお墓はいったいどこにあるのでしょう?そして亡骸はどこにいってしまったのでしょうか?・・・