【徳川家康】は影武者だった!?徳川家康に隠された2つの裏情報とは?

徳川家康 影武者 隆慶一郎 村岡説 世良田二郎三郎元信 関ケ原の戦い 桶狭間の戦い

 

徳川家康」は戦国時代を終わらせた偉人であり、

 

江戸時代を通して神君と呼ばれていたので

 

その出自を疑う者はだれもいませんでした。

 

ところが近年になると、

 

徳川家康は人生のいずれかのタイミングで

 

別人と入れ替わったのではないかという説が、

 

数多く出回るようになりました。

 

では徳川家康が影武者であるという説には、

 

どういったものがあるのでしょうか?

 

ここでは、

 

徳川家康は影武者だという理由と、隠された2つの裏情報

 

についてご紹介してきます。

 

 

戦国時代は「影武者」がよく使われた

 

徳川家康 影武者 隆慶一郎 村岡説 世良田二郎三郎元信 関ケ原の戦い 桶狭間の戦い

 

今ではあまり考えられませんが戦国時代、

 

大名たちは戦場において影武者を使うのは珍しくありませんでした

 

戦は頭脳戦・心理戦ですから影武者を上手に使ったほうが、

 

戦況を有利に進めることができるため

 

頻繁に使われてきたのです。

 

影武者を使えば大名の命も奪われませんし、

 

士気を上げることも可能なので便利なんですね。

 

多くの場合、影武者を使っているような

 

情報が漏らされませんから、

 

歴史的に明らかにされてきたのはごくわずか。

 

徳川家康が影武者を本当に使っていたのかどうかは、

 

今のところ確かめようがありません。

 

ですが、徳川家康が影武者になっていた

 

2つの裏情報があったのです。

 

 

徳川家康が影武者になっていた2つの裏情報とは?

 

徳川家康 影武者 隆慶一郎 村岡説 世良田二郎三郎元信 関ケ原の戦い 桶狭間の戦い

 

巷に流れている、徳川家康が影武者と入れ替わっていた

 

という説は10以上あります。

 

しかしそのほとんどが、明治以降に作られた創作であり、

 

小説やドラマなどに登場した作り話が

 

そのまま説として残っているようなものです。

 

その中でも、信憑性が比較的高く一般的に知られている

 

影武者説は次の通りとなっています。

 

  1. 桶狭間の戦いで影武者と入れ替わっていた
  2. 関ケ原の戦いで影武者と入れ替わっていた

 

どちらも、戦いの最中に家康は討たれており、

 

士気を低下させまいとして影武者が使われたという説です。

 

それではこの2つの説について、少し詳しく見ていきましょう。

 

 

1:桶狭間の戦いで影武者と入れ替わっていた

 

徳川家康 影武者 隆慶一郎 村岡説 世良田二郎三郎元信 関ケ原の戦い 桶狭間の戦い

 

桶狭間のときに影武者が使われたという説は、

 

村岡説」と呼ばれています。

 

明治35年に、村岡素一郎という人物が

 

史疑 徳川家康事蹟」という本を出版し、

 

その中に徳川家康は人生の途中から

 

影武者が使われていたと記述したのです。

 

その本に記述されている説によると、

 

徳川家康が今川家に人質になっていたとき、

 

家康は独立をするのですが

 

不慮の事故による数年後に死亡し、

 

そこから先は「世良田二郎三郎元信」が

 

家康として振る舞ったのだそう。

 

家康が独立したのは、桶狭間の戦いの後ですが、

 

この戦いを境にして影武者である

 

「世良田二郎三郎元信」が、

 

家康の代わりとして振る舞いました。

 

こうまとめた村岡素一郎の本ですが、

 

数百部しか発行されずその後は絶版になったようです。

 

あまりにも現実離れした内容に、

 

徳川家の子孫が大激怒し、

 

出版会社に圧力をかけた為に

 

絶版となったと言われています。

 

この桶狭間を境にして別人と入れ替わったという説は、

 

それを裏付けるような史料がまったく存在しないので、

 

小説の創作のネタだろうと言われるほどです。

 

 

2:関ケ原の戦いで影武者と入れ替わっていた

 

徳川家康 影武者 隆慶一郎 村岡説 世良田二郎三郎元信 関ケ原の戦い 桶狭間の戦い

 

影武者説の中で、一番有名なのが

 

関ケ原の戦い」説ですね。

 

関ケ原の戦いは、天下分け目の大一番の合戦で、

 

ここで徳川連合軍が勝利したので

 

戦国時代が終わり江戸時代が幕明けたとされています。

 

この大一番の合戦で、家康は暗殺されてしまい、

 

影武者が家康の代わりを続け

 

軍隊の士気を高めて勝利を掴んだのだとか。

 

現代でもドラマや映画、

 

漫画のネタにされるぐらい有名なものですから、

 

聞いたことがある人も多いのではないでしょうか?

 

この説を唱えたのは、村岡説に触発された

 

隆慶一郎」という人物で、

 

「影武者徳川家康」を書き一気に話題になりました。

 

根拠として、1600年頃から人が変わったかのように、

 

家康の性格が変化したというものを挙げています。

 

こちらは史料が残されている訳ではなく、

 

史実から影響を受けたものだと

 

結論付けられており、完全な創作のようです。

 

また大坂夏の陣で、

 

家康は真田幸村の攻撃で死亡しており、

 

影武者がその後の家康を演じた

 

という説もありますが、こちらも信憑性に欠けます。

 

 

このように、徳川家康に影武者がいて

 

人生のある時点から入れ替わったという説は、

 

どれも信憑性に欠けているという点が分かりますね。

 

小説のネタだったり、

 

史実から影響を受けて発想されたものだったりと、

 

出どころは明治以降になってからです。

 

徳川家康は神君と呼ばれ神格化されていますから、

 

その存在を疑わないのが当たり前でした。

 

今考えてみれば、徳川家が都合の良いように

 

歴史を修正していたとしても

 

不思議ではないので、

 

影武者を使ってたとしても驚きはないでしょう。

 

しかし今のところ、影武者説はあまりにも

 

強引なので批判されています。

 

もしかしたら今後新しい発見があり、

 

本当に家康は影武者だったという

 

新事実が明らかにされるかもしれません。

 

この「曖昧さ」が、多くの人が興味を持つキッカケなのでしょうね。

 

そんな天下人の家康さん、人生の終焉、

 

家康の謎の死因とは!?」も合わせてどうぞ!

 

引き続き、「歴史に隠された黒い噂と黒歴史」をお楽しみください!!

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