【明智光秀】は死んでない?明智光秀と天海が同一人物だった3つの説とは!?

明智光秀 天海 南光坊 明知光春

 

本能寺の変において、織田信長を襲った

 

主犯とされているのが「明智光秀」ですよね。

 

その後は豊臣秀吉に追われ、

 

農民から致命傷を受けて死亡したとされています。

 

しかしその時の状況は詳しく説明されているワケではなく、

 

現在様々な説が唱えられているほど。

 

その中のひとつに、「天海」と名乗り

 

家康を助けたというものがあります。

 

では、どうして明智光秀と天海が

 

同一人物という説が浮上しているのでしょうか?

 

ここでは、

 

明智光秀と天海が同一人物だった3つの説

 

についてご紹介してきます。

 

 

そもそも「天海」は何をした人物?

 

明智光秀 天海 南光坊 明知光春

 

明智光秀が天海と名乗り生き延びていたと言われても、

 

天海」って誰?となりますよね。

 

天海は徳川家康の側近として、

 

朝廷政策宗教政策に深く関与した

 

参謀役」です。

 

この人物がいなければ、江戸時代は

 

その後200年以上続くことは無かっただろう

 

と言われるほど、優秀な働きをしと言われています。

 

天台宗の僧侶であり、

 

南光坊天海」とも呼ばれており、

 

この時代にしては非常に長寿だったようです。

 

また徳川家康の命令により、

 

江戸城をどこに築城するのが一番良いかを

 

調べることになった天海は、

 

中国の陰陽五行説の考えを採用し、

 

幕府の本拠地を現在の跡地に置くことを決定しました。

 

江戸城の築城だけでなく

 

城下町をどのように配置するのが理想かを、

 

初期から完成に至るまでおよそ

 

50年も関わったとされています。

 

こうした功績を見てみると、

 

江戸の発展に大きく貢献したという理由が分かりますよね?

 

 

明智光秀が天海だとする3つの説

 

明智光秀 天海 南光坊 明知光春

 

さて天海のことが少し分かったところ、

 

本題の「光秀=天海」説が

 

どうして浮上したのかを見ていきましょう。

 

明智光秀と天海が同一人物だと

 

言われている理由は、次の通りです。

 

1:明智光秀が死亡してから天海が表舞台に登場した

 

明智光秀 天海 南光坊 明知光春

 

明智光秀が本当に本能寺の変の後に

 

追われて死亡したのかについては、

 

今でも調査が続けられていますが

 

明確な答えは出ていません。

 

というのも、明智光秀が死亡してから

 

実は生きていたのではないか?

 

という形跡が次々と出てきているからなんですね。

 

たとえば、天下の分け目と言われる

 

大合戦「関ケ原の戦い」において、

 

天海=明智光秀」らしき人物が描かれている屏風があります。

 

また比叡山の石灯籠が

 

光秀」の名前で寄進されたのが、

 

1615年2月17日とされており、

 

光秀が死亡したとされる

 

1582年よりも後の出来事です。

 

こうした事例にがいくつも挙げられており、

 

光秀は実は落ち武者狩りで死亡したのではなく、

 

そこから生き延びていたのではないか?

 

と言われるようになりました。

 

そうした中、明智光秀が死亡してから

 

「天海」という人物が

 

表舞台に出てきたというのは、

 

偶然だと感じるでしょうか?

 

江戸時代初期の基礎を築いた

 

偉人といっても良い天海ですが、

 

前半生についてはほとんどのことが分かっていません

 

それなのに、幕府の中心的な役割を担うような

 

重要職に就いているのだから、不思議なんですね。

 

いずれにしても、明智光秀が

 

歴史の表舞台から消えたのと同じタイミングで、

 

天海が出てきたという状況から、

 

光秀が天海と名乗り

 

活躍したのではないかとされているのです。

 

 

2:徳川家康に意見を述べれる立場だった

 

明智光秀 天海 南光坊 明知光春

 

天海という人物は実に不思議で、

 

どういう訳か徳川家康に

 

意見を申し付けるほどの立場でありました。

 

戦国時代から江戸時代初期

 

という時代を考えてみると、

 

徳川家康に意見をたやすく言える人は

 

ほとんどいなかったと推測できるでしょう。

 

それなのに、突如として登場した

 

天海が家康に意見を申し付けているのだから、

 

相当強い繋がりがあると考えるのが自然です。

 

さらに、徳川家康は、

 

  • 1603年 : 新宗光寺の再興
  • 1607年 : 比叡山の復興

 

など重要な仕事を次々と天海に任せます。

 

家康と天海が直接会ったのは、

 

1608年とされているところを見ると、

 

会ってもいない人物に対して

 

重要な仕事を命じたことになるのですが

 

これは不自然だと思いませんか?

 

つまり家康は、天海と会う前から

 

存在を把握していたハズです。

 

そして天海という人物は、豊臣秀吉に対して

 

強い恨みを持っていた可能性すら浮上しています。

 

  • 徳川家康に意見を言える
  • 以前から家康と面識があった
  • 秀吉に強い恨みを持っている

 

こうした点を考えてみると、

 

思い当たるのが明智光秀なのです。

 

 

3:筆跡鑑定で両者が似ていた

 

明智光秀 天海 南光坊 明知光春

 

2000年に放送されたテレビ番組において、

 

明智光秀と天海の筆跡鑑定が行われました。

 

この結果、光秀と天海は別人であるが

 

類似している文字がいくつか見つかっており、

 

親子のような近親者ではないかと推定されたのです。

 

こうしたところから、光秀の従弟である

 

明知光春」などが

 

天海ではないかという説が浮上しました。

 

昔の史料ですから、その筆跡が

 

本人である可能性も少ないので、

 

この筆跡鑑定から

 

事実が確定したという訳ではありませんが、

 

興味深い判定だったことは間違いありません。

 

明智光秀じゃなかったとしても、

 

それに近い人物であれば

 

家康が早い頃から知っていたとしても

 

不思議ではないでしょう。

 

 

いかがでしたか?

 

明智光秀と天海が同一人物だった根拠を、いくつか見ていきました。

 

もし光秀が天海であるとするなら、116歳で死亡したことになり、

 

現実的ではないという見方みあります。

 

真相は謎に包まれたままですが、

 

現代の人をここまで関心を示させている明智光秀は、

 

やはり只者ではありませんね。

 

引き続き、「歴史に隠された黒い噂と黒歴史」をお楽しみください!!

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