【豊臣秀吉】の側室で有名な「淀殿」の壮絶な人生とは?

豊臣秀吉 側室 北政所 淀殿

 

豊臣秀吉」と聞けば、百姓から天下人になった

 

出世頭として現代でも知られていますよね。

 

天下人になったのは良いですが、

 

志半ばで「病死」という最期を遂げてしまいます。

 

そんな豊臣秀吉ですが、側室が多いわりには

 

あまり子宝には恵まれなかったようです。

 

では、秀吉にはどれだけの側室がいて、

 

どんな生活を送っていたのでしょうか?

 

ここでは、豊臣秀吉の側室で有名な

 

淀殿」の壮絶な人生についてご紹介してきます。

 

 

豊臣秀吉は何人の側室がいたのか?

 

豊臣秀吉 側室 北政所 淀殿

 

豊臣秀吉には、1人の正室で12人の側室、

 

合計で13人の妻がいました。

 

女好きという性格が如実に表れていますが、

 

側室が多い理由はそれだけではないようです。

 

というのも秀吉は子宝に中々恵まれず、

 

天下人になった子孫を残そうと

 

行動を起こしてこの人数になったのだとか。

 

正室は、「北政所」という女性で、

 

この女性との間に子供はいませんでした。

 

残りの12人の側室の名前は次の通りです。

 

  • 淀殿
  • 南殿
  • 南の局
  • 加賀殿
  • 松の丸殿
  • 甲斐姫
  • 三条殿
  • 三の丸殿
  • 広沢局
  • 月桂院
  • 香の前
  • 円融院

 

この中で、秀吉の子供を産んだのは

 

  • 南殿
  • 淀殿

 

の2人だけです。

 

それも、南殿との間にできた長男と長女は病弱のため、

 

二人とも夭逝してしまいます。

 

そのため、淀殿との間にできた次男・豊臣鶴松と

 

三男・豊臣秀頼の2人を秀吉は大切に育てました。

 

この時代は女性に関する史料がほとんどありませんので、

 

秀吉の側室の大部分は名前が不明だったり、

 

秀吉没後の動きが分かっていません。

 

その中であっても「淀殿」に関しては、

 

様々なことが分かっています。

 

ここでは12人いる秀吉の側室の中でも、

 

現代でも人気の高い「淀殿」について詳しく見ていきますね。

 

 

豊臣秀吉が淀殿を側室に選んだ驚きの理由とは?

 

豊臣秀吉 側室 北政所 淀殿

 

豊臣秀吉が一番愛した女性として、

 

現代でもドラマや映画などで

 

度々取り上げられるのが淀殿です。

 

茶々という名前のほうが有名かもしれませんが、

 

どうして秀吉は淀殿をそこまで愛したのでしょうか?

 

実は、淀殿は永井長政を父に、

 

お市の方を母に持つ女性で、

 

お市の方は織田信長の妹です

 

秀吉は百姓出身ということもあり、

 

高貴な女性を大変好んだと言われています。

 

また主君として仕えていた

 

織田信長の妹の娘ですから、

 

かなり憧れがあったのでしょう。

 

淀殿はとてもキレイな顔立ちをしていたとされているので、

 

生まれも相まって秀吉は大好きだったのです。

 

淀殿を側室に迎え入れてから、すぐに懐妊をします

 

子宝に恵まれなかった秀吉は、それはもう大喜びで、

 

淀殿に淀城を与えてそこを住まいとさせました。

 

さて、浅井長政とお市の方の間には、

 

淀殿を含めて3人の娘がいました。

 

その中でも母親である「お市の方」に、

 

とてもよく似ていた淀殿を秀吉は選んで側室にしたようです。

 

というのも、秀吉はお市の方に憧れていたみたいなんですね。

 

大好きな淀殿と、待ち望んだ子供と

 

幸せな生活を夢見た秀吉ですが、

 

淀殿は母と同じ運命を辿るのでした。

 

 

淀殿の壮絶な人生とは?

 

豊臣秀吉 側室 北政所 淀殿

 

豊臣秀吉の側室として迎え入れられた淀殿は、

 

子宝にも恵まれ幸せな生活を送っていましたが、

 

幸せな生活はそう長く続きませんでした。

 

豊臣秀吉が病死したので、

 

息子・豊臣秀頼が跡継ぎになるハズでしたが、

 

ここで待ってましたとばかりに登場したのが徳川家康です。

 

徳川家康が大阪城へ進軍し、

 

絶体絶命となった秀頼と淀殿

 

大阪城で自害をしてしまいます。

 

この大阪城での自害説は、

 

今のところ有力とされていますが不明な部分も多いのだとか。

 

実は淀殿の遺体が大阪城で発見されていないんですね。

 

そのため、実は秀頼と共に逃げ出して

 

無事だったのではないかという伝承もあるほど。

 

いずれにしろ、織田信長、豊臣秀吉、

 

そして徳川家康と戦国時代を代表する3人に、翻弄される形となった淀殿

 

時代に翻弄された人生は、まさに波乱万丈だったことでしょう。

 

 

いかがでしたか?

 

豊臣秀吉には1人の正室と12人の側室がいましたが、

 

その中でも一番愛したのが側室の淀殿でした。

 

中々子宝に恵まれなかった秀吉は、

 

淀殿を側室に迎え入れたらすぐに2人の子供を設けたので、

 

父親が本当は違うのではないかという説もあるほど。

 

その波乱万丈な人生をたくましく生きた淀殿だからこそ、

 

現代でも人気があるんですね!

 

そんな淀殿の夫の秀吉さん、

 

何と!「指が6本あった!?」という情報も・・・

 

引き続き、「歴史に隠された黒い噂と黒歴史」をお楽しみください!!

関連ページ

【豊臣秀吉】の指が「6本」あったことを裏付ける2つの証拠とは?
豊臣秀吉のような天下人になると、後世に様々な話が伝わるようになります。真実なものから、完全な創作まで非常に多いのですが、その中でも事実だと言われているのが「多指症」ですね。豊臣秀吉は右手に親指が2つあるという話・・・
戦国一の出世頭!【豊臣秀吉】の性格が分かる言動や行動とは?
織田信長の意志を継いで、天下統一を果たしたのが豊臣秀吉ですね。戦国時代の三英傑の一人に数えられており、百姓から天下統一を果たしたので「戦国一の出世頭」と評されていま・・・
【豊臣秀吉】の死因は性病だった?死因が残されていなかった本当の理由とは?!
織田信長の死後、求心力を強め天下統一を果たしたのが豊臣秀吉ですね。戦国時代を大きく変化させた、三英傑の一人だとされています。そんな豊臣秀吉ですが、病死したという説が一般的ですが、どんな病気で死亡したのか・・・