【豊臣秀吉】の死因は性病だった?死因が残されていなかった本当の理由とは?!

豊臣秀吉 病気 大阪城 関白

 

織田信長の死後、求心力を強め

 

天下統一を果たしたのが「豊臣秀吉」ですね。

 

戦国時代を大きく変化させた、

 

三英傑の一人だとされています。

 

そんな豊臣秀吉ですが、

 

病死」したという説が一般的ですが、

 

どんな病気で死亡したのかについては

 

何も分かっていません。

 

では、秀吉は何が原因で死亡したのでしょうか?

 

ここでは、

 

豊臣秀吉の死因と史料が残されていなかった本当の理由

 

についてご紹介してきます。

 

 

豊臣秀吉は天下統一後から不運に見舞われていく

 

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織田信長が本能寺の変により、

 

死亡してから家臣を中心として

 

勢力争いが水面下で勃発していました。

 

「次はオレが!」というギラギラした

 

野心をむき出しにしている家臣が多かったので、

 

その争いは想像を超えるものだったことでしょう。

 

誰も敵わないと思っていた信長が

 

まさかの身内からの裏切りにより

 

死亡してしまったのですから、

 

このチャンスを逃すまいと皆必死だったのです。

 

求心力をつけ、権力を握るようになると

 

1585年に大阪所を築城し、

 

臣下としては最高位の「関白」になったのです。

 

関白になったとき、朝廷から「豊臣」姓を与えられ、

 

名前を豊臣秀吉にし京都に豊臣家の本邸を築き、

 

そこで政治を執り行うようになります。

 

1589年には嫡男

 

鶴丸」が産まれますが1591年に夭逝してしまい、

 

この頃から不運が多く続くようになっていくのです。

 

 

豊臣秀吉は1598年から衰弱していく…

 

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  • 嫡男の夭逝
  • 弟の病死
  • 千利休の切腹

 

さらに1592年に派遣した2度の朝鮮出兵の惨敗

 

短い期間でこれだけの不運が続いたこともあり、

 

何事にも動じない性格を持っている

 

秀吉でもさすがに疲弊してしまいます。

 

数々の不運を払拭するためか、

 

秀吉は1598年に醍醐三宝院において

 

盛大な花見をして景気良い雰囲気にしようと心がけました。

 

この花見は大変に賑わったということもあり、

 

現代でも「醍醐の花見」として取り上げられています。

 

招待客は1300人を超え、

 

女性には3回の衣装変えが命じられ、

 

衣装代だけでも現代に置き換えると

 

30億円は超えたのだとか。

 

想像をはるかに超える花見を開催した後、

 

秀吉は病により徐々に衰弱していきます。

 

ここで明らかに病気を患っていることが見て取れるのですが、

 

何の病気になっているのか現代でも謎に包まれています。

 

今のところ考えられている病気は次の通りです。

 

  • 大腸がん
  • 脚気
  • 性病
  • 腎虚

 

 

豊臣秀吉の死因は「性病」という説が一番有力に!

 

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このように、豊臣秀吉には

 

様々な病気が考えられているワケですが、

 

一番可能性として高いのが「性病」です。

 

病に倒れた秀吉は、どんどん衰弱していき

 

下痢や腹痛、吐き気、嘔吐が見られ

 

無意識に失禁することもあったと言われています。

 

病に倒れてからわずか数か月後には、

 

衰弱して痩せ衰えてしまいました。

 

戦国時代は医療技術が発達しておらず、

 

有効」とされたのは主に漢方でしたが、

 

この漢方薬も効果がほとんど見られず

 

症状は悪化の一途をたどっていきます。

 

無意識に失禁したり、急激に衰弱する症状から従来は

 

大腸がん」という説が有力視されていました。

 

ところが秀吉が62歳でこの世を去った際、

 

彼を見舞ったキリスト教宣教師「ロドリゲス」が

 

秀吉の状態を詳細に記述しています。

 

見舞った際の秀吉は、

 

干からびていて、本当に人間なのかどうか分からない。まるで悪霊のようだ

 

という記述を残しているのです。

 

この時代の平均寿命は

 

40〜50歳程度と言われていたので、

 

62歳という年齢はこの世を去ったとしても

 

不思議ではありませんが、

 

それにしても秀吉の状態は異様でした。

 

生きる力をすべて使い果たしたかのような

 

衰弱ぶりというロドリゲスの記述から、

 

大腸がんではなく性病の

 

梅毒」や腎虚が疑われるようになってきたのです。

 

 

死因について詳しい史料が残されていない本当の理由とは?

 

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戦国時代の流れを大きく変え、

 

信長の意志を受け継いで

 

天下統一を果たした豊臣秀吉ですから、

 

周囲はもとより全国にその名は響いたハズ。

 

ということは、生涯について詳細に史料に

 

残されていても不思議ではありませんよね?

 

現代から見てみれば、もう400年以上昔の出来事ですから、

 

史料が限られているのも仕方ありませんが、

 

それにしても秀吉に関してはあまり知られていません。

 

特に、病で倒れてから後のことに関しては、

 

全くの謎でロドリゲスが記述した史料が無ければ、

 

死去したときの状況は分からなかったのです。

 

どうしてここまで秀吉の最期が記されていないのか?は、

 

今でも不可解な点として調査が続けられています。

 

一説によれば、徳川家康が敵対していた

 

秀吉の徹底したネガティブキャンペーンを行い、

 

詳しく記されていた史料を燃やしてしまった

 

可能性があると言われています。

 

秀吉の死去のニュースは、

 

おそらく全国各地に伝わったでしょう。

 

天下統一を果たした頂点がいなくなったのですから、

 

「次はオレが!」と名乗りを挙げる人は大勢いたハズ。

 

天下泰平となり、時代が変わると思いきや

 

いきなり混沌とした状態に戻ったのですから、

 

秀吉の死亡原因など追及している暇もなかったのではないかと、

 

今では考えられています。

 

つまり、秀吉の死亡理由に興味が無かったんですね

 

それよりも、今後どういった流れが訪れるのだろうかという方向に、

 

多くの人が関心を向けてしまったので

 

史料が残されていないのです。

 

それでは最後に、病死した秀吉が残した

 

遺言状を見てみましょう。

 

「重ね重ねになるが、秀頼のことを頼む。」
「五大老よ、秀頼をよろしく頼む。」
「一人残してしまうのは不安なのだ」

 

ここには、年老いて産まれた息子を案ずる、

 

一人の父親としてのあまりにも

 

素直な気持ちを感じ取れますよね。

 

百姓から天下統一を果たした天下人であったとしても、

 

最後は一人の父親ということでしょうか。

 

 

いかがでしたか?

 

豊臣秀吉がなんの病気で死亡したのか、

 

史料に乏しく確実には分かっていません。

 

それでも女性好きが災いして性病にかかり、

 

衰弱死したのではないかと考えられているのです。

 

そんな秀吉さん、何と!「指が6本あった!?」という情報も・・・

 

引き続き、「歴史に隠された黒い噂と黒歴史」をお楽しみください!!

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