戦国一の出世頭!【豊臣秀吉】の性格が分かる言動や行動とは?

豊臣秀吉 性格 不如帰 織田信長 徳川家康

 

織田信長の意志を継いで、

 

天下統一を果たしたのが「豊臣秀吉」ですね。

 

戦国時代の三英傑の一人に数えられており、

 

百姓から天下統一を果たしたので

 

戦国一の出世頭」と評されています。

 

そんな豊臣秀吉ですが、

 

どういった性格をしていたのか気になりますよね?

 

表と裏が激しいなんて言われてもいますが、

 

実際はどうだったのでしょうか?

 

ここでは、

 

豊臣秀吉」の性格が分かる言動や行動

 

についてご紹介してきます。

 

 

豊臣秀吉は一体どんな性格だった?

 

豊臣秀吉 性格 不如帰 織田信長 徳川家康

 

三英傑と称される、

 

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康」には

 

不如帰(ほととぎす)」に託された詩があまりにも有名ですね。

 

  • 織田信長:鳴かぬなら、殺してしまえ、ほととぎす
  • 豊臣秀吉:鳴かぬなら、鳴かせてみせよう、ほととぎす
  • 徳川家康:鳴かぬなら、鳴くまで待とう、ほととぎす

 

ここから分かるように、豊臣秀吉は困難だと思われる現状を、

 

自分の力によって打破することに長けていました。

 

豊臣秀吉は、策略家」と言われる所以は、

 

いくつもありますが「不如帰」に託された詩が

 

すべてを物語っていますよね。

 

百姓から天下統一を果たしたのですから、

 

策略以外にも運や努力も当然あったでしょうが、

 

それも含めて秀吉の実力だと言えます。

 

策略家というイメージを決定づけたエピソードとして、

 

信長の草履暖め作戦」が有名です。

 

秀吉が織田信長の草履取りを任されていた際、

 

信長の草履を懐に入れて人肌で暖めていました。

 

その日はとても寒い冬であったので、

 

暖かい草履を履いた信長は秀吉の心遣いに

 

大変感心し目をかけたのだとか。

 

殿の草履を懐に入れるなど、

 

家臣といえども失礼にあたる行為。

 

一歩間違えれば殺されかねない状況ですが、

 

そこを上手く対処できるのも秀吉の才能なのでしょう。

 

 

戦においても数々の功績を遺した「勇ましい性格」という噂

 

豊臣秀吉 性格 不如帰 織田信長 徳川家康

 

豊臣秀吉は策略家というのもそうですが、

 

一度決めたら絶対に実行するという

 

行動力」に長けた性格をしていました。

 

1566年の観音寺の戦いにおいては、

 

夜襲を提案しそれを自ら実行します。

 

3尺ほどの巨大な松明を数百本用意し、

 

山の中腹にかけて50か所に設置して

 

一斉に火をつけました。

 

相手からしてみれば、

 

山の中腹までビッシリの大軍勢が攻めてきたと

 

錯覚することを狙ったのです。

 

それは的中し、大慌てで火が見える場所に

 

軍隊を出動させましたが、そこはダミー。

 

不意打ちは大成功し、秀吉の手柄となりました。

 

また1573年の小谷城の戦いでは、

 

3千の兵を引き連れて、

 

清水谷の斜面から京極丸を夜半に突撃し攻め落としました。

 

秀吉の発案によるこの作戦は大成功し、

 

信長に勝利を導いたとされています。

 

秀吉の功績で忘れてはいけないのが、

 

1582年に起こった本能寺の変です。

 

犯人とされる明智光秀率いる軍勢と戦い、

 

そして山崎の戦いにおいて明智光秀に勝利します。

 

元々秀吉は信長に命じられて、

 

高松城を水攻めにしている最中でしたが、

 

信長が光秀によって倒されたことを聞き、

 

大急ぎで京都に戻ります(中国大返し)

 

この行動力の高い性格が、

 

光秀を窮地に追いやり討伐したとされています。

 

 

豊臣秀吉は自己顕示欲が強い性格をしていた

 

豊臣秀吉 性格 不如帰 織田信長 徳川家康

 

豊臣秀吉は、上司の機嫌を取るのが上手な

 

世渡り上手」な性格をしていましたし、

 

頭が非常にキレる

 

策士」の一面も持っていることが分かりました。

 

秀吉の性格を調べると、必ず取り上げられるのが

 

自己顕示欲が強い」という部分ですね。

 

秀吉は人間観察がとても優れており、どの人物であれば

 

自分のことを見せるだけの価値があるかを

 

瞬時に見抜いていました。

 

信長の家臣になった時も、家臣団の中で

 

一番身分が低かった為仕事が巡ってきませんでした。

 

そこで誰もが嫌がるトイレ掃除を、

 

自ら率先して行ったのです。

 

トイレ掃除をしているなんて知らない他の家臣が、

 

秀吉が下にいるのも知らずに排泄した際

 

「私は豊臣秀吉(このときは羽柴秀吉)です。

 

トイレ掃除をしていました!」

 

と叫びました。

 

この一件により家臣から、

 

あいつはスゴイ奴だ

 

と感心され一気に存在感を高めることに成功したのです。

 

人間観察能力に優れ、自己顕示欲の強い

 

秀吉ならではのエピソードではないでしょうか?

 

 

豊臣秀吉は女遊びが激しい「豪遊な性格」

 

豊臣秀吉 性格 不如帰 織田信長 徳川家康

 

豊臣秀吉は女遊びが大好きな性格をしていました。

 

戦国時代の中でも一位二位を争うほどの性欲の強さで、

 

特に高貴な出身で気品に溢れた

 

美女がお気に入りだったのだとか。

 

中でも織田信長の血を引き継いだ家系である女性に、

 

興味を示す向きがありました。

 

元々秀吉は百姓出身だったので、

 

高貴な女性に憧れていたという一面もありますが、

 

「主君として従えていた信長と同じ血族になりたい」

 

という欲望もあったものと思われます。

 

詳しい史料はありませんが、

 

秀吉はおおよそ300人の女性と

 

関係を持ったとされています。

 

女遊びが激しければ、

 

性病」を患うリスクが高まるのは、

 

今も昔も変わりません。

 

豊臣秀吉は戦死ではなく、

 

病死と記録されていますが詳しい病名は不明です。

 

ですが一説によれば、

 

脳梅毒」が関係しているのではないかと言われています。

 

脳梅毒を患うと、性格が荒々しくなるとされており、

 

秀吉の晩年は非常に荒々しい態度を見せていたので、

 

この説が浮かび上がっているのです。

 

 

いかがでしたか?

 

豊臣秀吉の性格について、様々な角度から紹介してみました。

 

百姓から天下統一を果たした戦国一の出世頭ですから、

 

それが可能なだけの性格をしていますよね。

 

そんな秀吉さん、何と!「指が6本あった!?」という情報も・・・

 

引き続き、「歴史に隠された黒い噂と黒歴史」をお楽しみください!!

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