戦国最後のヒーロー!!【真田幸村】の名言から読み解く家康との因縁とは?!

真田幸村 名言 真田丸

 

真田幸村】と言えば知名度抜群で人気武将の一人ですが、

 

知名度の割には殆ど記録が残っていないのをご存知でしょうか?

 

幸村は領地を治めた武将ではない上に、

 

若い頃から人質生活が長く、更に関ヶ原の戦い以降は

 

幽閉生活がなんと!13年も続いていたからです。

 

そのため、彼の言葉や生活が分かる記録は、

 

幸村が活躍をした関ヶ原の戦い(第二次上田合戦)、

 

大坂の陣の2つの戦に関するものくらい。

 

更に、この2つの戦はいずれも、徳川家との戦であり、

 

幽閉生活もまた徳川の命。つまり、幸村の人生とは

 

実は徳川家康との戦いの人生だった・・・

 

と言っても過言ではありません。そして幸村の宿敵

 

家康もまた、真田家と幸村に対しては

 

特別な思いを抱かずにはおれなかったようです。

 

そんな幸村と家康との因縁めいた関係は、

 

幸村の残した名言から垣間見ることが出来ます。

 

そこで、ここでは真田幸村の家康との2つの戦さに関する

 

名言をご紹介しながら、幸村と家康の敵対しつつも、

 

どこか見えない糸で繋がれたような因縁を読み解いて行こうと思います!

 

  • 記録がある戦はたったの2つ?!戦果はいかに??幸村の戦いとは!?
  • 家康との因縁の証拠?!幸村の残した意味深な名言とは?!
  • 家康は幸村が○○だった?!幸村亡き後の家康の言葉とは?!

 

 

記録がある戦はたったの2つ?!戦果はいかに??幸村の戦いとは!?

 

真田幸村 名言 真田丸

 

関ヶ原の戦い(第二次上田合戦)

 

真田幸村が最初に名を挙げた戦いは33歳のときの関ヶ原の戦いです。

 

人生50年の時代からすると遅咲きですね。

 

それまでの幸村は、上杉家や豊臣家の人質として

 

過ごした時期が長かったそうです。人質と言っても幸村は、

 

上杉景勝や豊臣秀吉に大変気に入られ、

 

身近な家臣として仕えていたそうです。

 

この時の忠誠心が、後の徳川家康との戦いに繋がっていきます。

 

その幸村が最初に活躍した戦いは、

 

秀吉の死によって起こった関ヶ原の戦いでした。

 

真田家は父、昌幸と幸村は西軍、

 

兄の信幸は東軍に分かれて戦うことになりました。

 

とはいえ戦場は関ケ原ではなく真田の本拠地、上田城です。

 

真田軍は、関ケ原に向かう徳川秀忠の

 

3万8000の大軍に攻められますが、

 

昌幸、幸村は見事な策で秀忠を翻弄し、

 

徳川軍は上田城を落とすことなく退散

 

さらには関ケ原にも間に合わず、家康を大変怒らせたそうです。

 

天下の徳川軍と戦って負けなかった真田軍ってすごいですよね。^^

 

しかし、昌幸、幸村の奮闘もむなしく関ヶ原の戦いでは

 

西軍が負けてしまいます。二人は家康の命で、

 

上田城を空け渡し九度山に幽閉されます。

 

このとき切腹とならなかったのは、東軍についていた信幸が、

 

家康に二人の助命を懇願したからだそうです。

 

家康も天敵のような真田親子を生かしておくとは、

 

ちょっと甘いですよね。^^;

 

 

大阪の陣

 

真田幸村 名言 真田丸

 

関ヶ原の戦い」から15年後、徳川家康が豊臣家の滅亡を

 

目論んで仕掛けたのが、大阪の陣です。

 

家康は豊臣家に対してあらぬ言いがかりをつけ、

 

1614年の冬に大阪城を攻撃。この直前まで、

 

幸村は九度山に幽閉中でしたが、

 

豊臣から依頼を受け参戦します。

 

真田幸村 名言 真田丸

 

その後、大阪城の出城「真田丸」を築き、

 

攻める徳川軍に徹底抗戦し痛手を与えます。

 

しかし豊臣家は、その後徳川家と和議を結び、

 

冬の陣収束。。。

 

冬の陣が収束すると徳川家は和議を次々と反故にし、

 

豊臣家を追い詰めます。これに反発した豊臣家を

 

徳川家が攻撃して遂に最終決戦、「大阪夏の陣」が始まります。

 

大阪夏の陣は、豊臣軍10万に対し、

 

徳川軍20万と豊臣軍は劣勢。そんな絶体絶命の中、

 

幸村は諦めないで勝つための策を練ります。

 

幸村率いる真田隊は3000の兵で、徳川家の部隊を次々と討ち破り、

 

ついに徳川家康の本陣にまで突入。

 

追い詰められた家康は切腹を覚悟するほどでした。

 

しかしやがて真田隊は徳川軍に押し返され敗退します。

 

幸村は戦場から少し離れた安居神社に逃げ延びますが、

 

徳川軍の武将に見つかり、討たれたのでした。

 

 

家康との因縁の証拠?!幸村の残した意味深な名言とは?!

 

真田幸村 名言 真田丸

 

幸村は家康との2度の戦いで、最後まで侍魂を失いませんでした。

 

その気高い志が、「名言」として残っていますのでご紹介しましょう。

 

関ヶ原の戦いでの名言

 

関ヶ原の戦いの前に、幸村の父、真田昌幸と

 

兄、信幸、幸村の3人が「犬伏の陣所」で

 

真田家の今後について話し合います。

 

真田幸村 名言 真田丸

 

このとき信幸が

 

「もしも、西軍が敗北して二人の命が
危機にさらされることになっても処刑されないように尽力しよう」

 

と言ったときに、幸村は

 

「人の死すべき時至らば、潔く身を失いてこそ、勇士の本意なるべし」

 

と返します。この意味は

 

「命を捨てても目的を達成しなければならない時がやってきたなら、
潔く死を覚悟することこそが真の勇士というものだ」

 

というものです。兄の信幸が現実的な案を出したのに対し、

 

幸村はストイックで対照的ですね。最終的には、

 

昌幸と幸村は西軍である石田三成方につき、

 

信幸は東軍である徳川家康方につき、どちらが勝っても

 

真田が生き残れる道を選択しました。

 

この策は見事に当たり、3人とも命をつなげることが出来ました。

 

 

大阪の陣での名言

 

真田幸村 名言 真田丸

 

幸村の名言は、殆どが

 

大阪冬の陣」と「大阪夏の陣」のに集中しています。

 

生きるか死ぬかという状況の中で発せられた言葉は、

 

とても奥深く人々の心を捉えるのでしょうね。

 

では、大阪冬の陣と夏の陣の前に、

 

幸村はどんな名を残したのかご紹介します。

 

幸村が九度山から大阪城に向けて出発する際に、

 

家族と家臣、地元の志願者も連れて行ったそうです。

 

その際に幸村が言った言葉がこれです。

 

「人は、自分を篤く思ってくれている人と生死を共にしたいもの」

 

死を覚悟して大阪城に向かう幸村に、

 

同じくを覚悟してついてきてくれるものたち・・・

 

どんな運命にあろうと最後まで彼らと共にしたい、

 

というこの言葉は、幸村の本当の願いだったのでしょうね。

 

「いざとなれば損得を度外視できるその性根、
世の中に、それを持つ人間ほど怖い相手はない」

 

こちらは大阪冬の陣で幸村に苦しめられた家康が、

 

幸村に使者を送り、寝返れば信濃10万石を与える

 

持ち掛けた際に、幸村が返した言葉です。

 

損得勘定で人を裏切ることなど当たり前だった

 

戦国時代において、幸村は「」を重んじ、

 

いざとなれば損得を度外視できる人間こそが最も強い、

 

と使者に言い放ち寝返りを断ったのでした。

 

かっこいいですよね。^^

 

「十万石では不忠者にならぬが、一国では不忠者になるとお思いか」

 

大阪夏の陣を目の前にして家康は

 

再び幸村に寝返りを打診します。

 

その際、家康は前回の寝返りを断られた際の

 

10万石を与えるという条件を更に吊り上げて、

 

信濃一国を与えると伝えますが、

 

その際に幸村が返した言葉です。

 

「10万石では寝返らないが、
信濃一国であれば寝返るとでもお思いになったのか?」

 

という言葉の裏には、

 

たとえ国を与えられても、寝返ったりはしない

 

という強い意志が感じられますね。更には・・・

 

「日本の半分をもらっても寝返るつもりはない」

 

「信濃一国どころか、たとえ日本の半分をもらっても寝返るつもりはない」

 

つまりは、どんな条件を出されようと寝返るつもりはない、

 

とキッパリ自分の意志を表明したのですね。

 

この言葉にはさすがの家康も、もはや幸村を取り込むことなど

 

不可能であることを、思い知らされたでしょうね。

 

 

関東勢は百万も候へ、男は一人もなく候

 

「徳川の軍隊は百万もいるのに、勇敢なものは一人も居ないものだな」

 

という意味で、これは大阪夏の陣で、

 

幸村が撤退する際に言った言葉として有名です。

 

真田隊は最後尾で、追って来る敵を防ぐしんがりをつとめますが、

 

徳川軍の伊達政宗などは追撃をしませんでした。

 

そのとき、幸村は上記の言葉を吐いて悠然と撤収したそうです。

 

まるで漫画ヒーローのようなセリフですね。

 

真田幸村 名言 真田丸

 

一度退却して、態勢を立て直した豊臣軍は、

 

最後の決戦、天王寺口の戦いに打って出ます。

 

しかし、この戦いで豊臣軍は、自軍の不用意な行動により破たん。

 

この状況を把握した幸村は

 

「今はこれで戦は終わり也。あとは快く戦うべし。
狙うは徳川家康の首ただひとつのみ」

 

とつぶやき、自ら家康を倒すことだけに集中したそうです。

 

結果、ここから家康をあと一歩のところまで追いつめる、

 

幸村の最後の戦いが繰り広げられました。

 

辞世の句

 

幸村の最後は徳川家康をあと一歩のところまで

 

追い詰めながら、その後、真田隊は力尽きて

 

退却を余儀なくされ、その途中で疲れ果てて

 

動けなくなっていたところを敵将に見つかり討たれてしまいました。

 

この時、当然のことながら辞世の句など

 

詠んでいる場合ではありませんので、

 

それらしきものは残ってはいません。

 

ただ、大阪夏の陣の約1か月前に幸村から

 

真田家の重臣の小山田茂誠とその子、

 

之知に宛てた書状に死を覚悟した言葉があり、

 

この書状が最後の書状であったため、

 

その中の言葉は幸村の「辞世の句」と言われています。

 

「さだめなき浮世にて候へ者、一日先は知らざる事、
我々事などは浮世にあるものとは、おぼしめし候まじく候」

 

この言葉の内容は

 

「運命の定まるところのないこの不安定な世の中のことですから、
1日先のこともどうなるか分かりません。
私たちのことなどはもうこの世にないものとお考えください。」

 

という意味です。夏の陣が始まる前に幸村は、

 

既に豊臣家が徳川家によって

 

滅亡に追いやられることを予想し、

 

死の覚悟をしていたのでしょうか。。。

 

 

家康は幸村が○○だった?!幸村亡き後の家康の言葉とは?!

 

真田幸村 名言 真田丸

 

実は、家康は大阪の陣までは、

 

幸村の存在は気にかけていませんでした。

 

家康にとって、やっかいな存在は幸村の父、昌幸であり、

 

その昌幸が亡くなった後の大阪の陣では

 

幸村への警は特にしていなかったようです。

 

しかし、大阪冬の陣で改めて幸村の存在の大きさを知った家康は、

 

名言にあるようにあの手この手でアプローチしますがなしのつぶて。。。

 

そんな幸村に家康は、敵を超えた特別な感情を

 

抱いていたのかもしれませんね。というのも、

 

大阪夏の陣の後、徳川家康は江戸城内に

 

次のような許可を出したそうです。

 

幸村の戦いぶりは敵ながら天晴れであり
江戸城内にて幸村を誉め讃えることを許す

 

自分を殺そうとした幸村を褒めたたえる家康。

 

そこには、親子2代にわたって自分自身を苦しめ、

 

更には命を落とす寸前まで自分を追い詰めた幸村に対して、

 

目に見えない繋り、因縁を感じでいたからではないでしょうか。

 

引き続き、「歴史に隠された黒い噂と黒歴史」をお楽しみください!!

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